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自分の「読み」についての観察と反省

はじめに

 ここでは、自分自身の「読み」についての実践を振り返ろうと思う。「読み」について現状認識することで、修士課程での生活をより豊かなものにするための大まかな方針を立てようという目論見である。したがってこのnoteは読書一般の分析でも批評でもない反省による自己診断であり、これを公開することにほとんど意味はない。
 それではなぜこんなことをするのかといえば、本当に情けないぐらい暇だからである。卒論が無事終わり、タスクが全くない状態で年末年始を迎えた。なんとなくのびのびとした気持ちで帰省したはいいものの、地元の友人達と会ったり親戚に挨拶しに行ったりしたあとは、思った以上に暇だった。それもそのはず、私の地元では自動車がなければほとんど何も出来ないのである。私の実家がある地域では、自動車を持たないことはそのまま地理的移動の権利を奪われることを意味する。それなのに、行政手続きの都合上もう少しここにとどまらなければならない…。
 こんな閉鎖的状況は、普段暮らしている京都では絶対に起こりえない。ひたすらに小説を読むのにも限界がある(なぜなら本屋も図書館も喫茶店もアクセス圏内に存在しないから)し、一方で家でゴロゴロしながらユーチューブを見続けるのも不思議なくらい苦痛である。それに家族以外と話すことがないので、自分の考えを出力する機会がなさすぎて体がむずがゆい。小説などを書くにしても、想像力には一日ごとに限度量があるので、ずっと書き続けられるわけではない(それができるなら作家にでもなったほうがいいな!)。それならば、せっかくの余りある時間を少しでも今後に役立てようじゃないか!という次第。

問題設定:「読み」を考察する意味

 それではなぜ、「読み」それ自体が考察の対象になるのか。それは、読みたい/読むべき本と自分の読書スピードが明らかに不釣り合いだからである。一言で言えばこれは積読の問題だ。「積読したって別にいい、それも読書の醍醐味だからね!」という考え方もわかる。あの積まれている本たちを見たときの、未だ自分の経験せざる楽しみが今まさに懐に残っている状態のワクワク感、非常にわかる。わかるので出来ればそう言っていられたらいいなと思うのだが、大学院生にとって話は別だ。大学院生にとり、読書は単なる趣味でなく働くための基礎的な能力となる。特に自分は人文・社会科学系の大学院に進むので、論文を書くにあたってはリサーチがかなりの比重を占めるだろう。よって「読む」という行為は広義でのビジネススキルであり、サバイバルスキルであると考えられる。それゆえ「積読ばかりだなあエヘヘ」とはなかなか言ってられない。むしろ、その状態をなるべく回避すべく「読み」についてひとまとまりの考えを持つことが重要である。こうした前提の上で、①読みたい/読むべき本と読む速度の問題、そして②それらの優先順位とバランスの問題をひとまず考えておきたい。そうすると、積読がただの本の山ではなくて、具体的なタスクの総体となる、かもしれない。

速度の問題

「読む」ことの2つの様態

 まず①読みたい/読むべき本と読む速度の問題について。先ほど、「読む」という行為をビジネススキルやサバイバルスキルとして考えられると述べたが、そのスキルにもよく知られる2つの様態がある。それが乱読と精読である。ここではまず、なぜその2つの仕方の読書が求められるのかについて簡単に考察しておきたい。
 人文・社会科学系の研究をするにあたっては、おそらく雑多な知識網が役に立つ。これは卒論を書くなかで体感したことなのだが、知識はおそらく思考の限界領域を決めている。つまり、「これって実はこうなっているんじゃないか?」という発想自体、それについての断片的な知識なしにはありえないということである。それゆえ多くのものについて「これって実はこうなっているんじゃないか?」と発想するには、悪食するくらいの勢いで本を読むことが要求されるだろう。極端な例としてレヴィ=ストロースを挙げると、彼はどこかのインタビューで、「『親族の基本構造』を書くのに7000冊もの論文や本を読みましたよ(笑)」みたいなことを言っていたらしい。イカれているのだろうか。唐突に降ってくる素晴らしいアイデアも、多くの場合は脳内に蓄積された知識網が再構造化されて浮き出てくるものだと思う。じっさい、すぐれた研究者や評論家は、研究書にせよ哲学書にせよ小説せよ、なんでも幅広く読んでいるように見える。もちろんすぐれた研究者うんぬんは経験談ではなく、観察の結果得た推測である。ともかく、なにかをある一定の重みをもって論じるには、下地となるそれなりの量の蓄積がなければならない。ここでは下地を作るための読書を「乱読」と呼ぼう。
 しかし一方で、知識量を増やすためになんでも斜め読みすればいいというのではない。ひとつのテクストを粘り強く読解し頭を働かす能力もきわめて重要である。じじつ、哲学的な理論・学説史研究などはこの能力なしには全く成立しないだろうし、ひとつのテクストを粘り強く読むだけでも、一読するだけでは絶対にわからないようなきわめて面白い論点や視点が浮き出ることがある。一般にこれをやっているのが哲学研究者たちだろう。それのみならず、精一杯頭を働かせた結果得た理論は、認識の枠組みとして機能し、雑多の情報や現実世界を分析しやすくしてくれる。一つのテクストを集中して読み、重要な概念の文脈とその相互連関をつかむこと。そうしたうえで獲得した言葉たちは、文字通り現実世界の認識を大きく変えることがある。こうして一つのテクストを時間をかけて読む仕方を「精読」と呼ぼう。
 こうして「読む」ことに2つの様態があることを簡単に確認したうえで、自分がそれらを具体的にどのように行っているのかを分析してみる。一応繰り返すが、これはあくまで自己診断であり、良い方法を提示してオススメするものではない。むしろ良い方法があれば教えてほしいくらいだ。

精読

 精読についての自己診断のために、まず精読遍歴を書き並べてみたい。
 自分が精読にあたるものを初めて経験したのは、大学一年生の秋に開催した『自殺論』の読書会だったと思う。自分はそこではじめて、文字情報を処理する以上の読書があることを知った。読書会のスタイルは、まず全員が該当ページを読んできて、週ごとの担当者がレジュメを作り発表し、発表に合わせて聞き手がその都度ガヤガヤ議論しながら進む、といった定番のものだった。当時の感想として、『自殺論』を読むのは非常に時間がかかるうえに驚くほど疲れるものだった。それまで読んできたものとは記述の密度が違ったので、まったく頭の働かせ方がわからなかったのだ。
 そんななかで初めて「読めた!」と感じたのは、自分が担当の週に、ノートを取りながらゆっくりと読み進めたときだった。そのときは単純にレジュメを作るための下書きのつもりでノートを取っていたのだが、ノートに書くときの要約作業を繰り返すうちに、「この人はどういうことを言いたいんだろう」と想像する癖がついていった。個人的にここは相当な飛躍点だったと思う。文字情報から「何が書かれているか」をまとめる力以外に、それを咀嚼しながら「どういうことを言いたいのか」を肌感で理解する力が必要だったのである。
 次の転換点は、『アンチ・オイディプス』を読んだときのことだ。このとき、①部分的に要約すること、②概念を機能によってとらえること、③概念を試験的に運用してみることを覚えた。この本は一人で読んだのだが、わからなさすぎて笑えるくらいだった。たとえば最初のほうにはこう書いてある。


いたるところで、これらは種々の諸機械des machinesなのである。しかも、決して隠喩的に機械であるというのではない。これらは、互に連結し、接続して、〔他の機械を動かし、他の機械に動かされる〕機械の機械なのである。〈源泉機械〉には、〈器官機械〉がつながれている。一方の機械は流れを発する機械であるが、他方の機械は、この発せられた流れを切断する機械である。乳房は母乳を生産する機械であり、口はこの機械に連結されている機械である。
 各人はそれぞれ自分の小さい種々の機械を具えている。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があることは、常に流れと切断とがあることである。

『アンチ・オイディプス』

「これだけ見せられても、言葉の説明がないんだからわからないよ」という意見はもっともである。しかし驚くべきことに、同書では基本的に用語の定義は行われない。なんの説明もなくいきなり「流れ」とか「欲望する諸機械」とか「器官なき身体」とかいう言葉が出てきて、著者はそれがあたかも共通言語であるかのように語り始める。つまりこの本は、もともと一読でわかるようには出来ていない。それにもかかわらず、雰囲気的にすら理解できないことが悔しかったので必死に食らいついた。 
 そこで私は本当にいろんなことを試した。図書館に行って用語の意味を調べたり、解説書を読んだり、図に書いてみたりもした。それでも釈然とはしなかった。同じページを行ったり来たりした。同じ文を何度も読んだ。それでもわからなかった。そんな悪戦苦闘のなかでいつの間にか取っていた行動が、①部分的に要約することだった。何度繰り返し読んでも部分的にしか理解できなかったので、割り切ってページの端に一、二文の要約を書き連ねていった。
 部分的な要約を繰り返すうちにできるようになったのが、②概念を機能によってとらえることである。たとえばあまり腑に落ちない概念がいくつか出てくる。よくわからないので、その概念をあえて使いつつ小さな要約を作ってみる。それをもう一度本文と照会し、修正していく。そうすると、文脈の力によってなんとなく概念を理解する取っ掛かりを作ることができる。たとえば先の引用だと、

よくわからないが、「流れ」を発する「機械」と「流れ」を切断する「機械」があるんだな、ということは、「機械」と「流れ」はセットの概念なんだな、あれれ、乳房も口も「機械」らしいぞ、じゃあ「機械」ってロボットのことではなさそうだな。

というところからイメージを作っていく。すなわち、ある言葉が全体の文脈のなかでどういう使われ方をしているのかを見るのである。そして使われ方を確認してから、事後的に、感覚的に意味を理解していく。
 そうすると最終的に、③概念を試験的に運用してみるようになる。たとえば、

自分が今動かしている手も「機械」に該当するのだろうか?
そうだとすると、「流れ」は今自分がキーボードを打つ流動的な動きのことで、それによって手機械とキーボード機械が「接続」されていると言えそうだ。自分の目の前でいま、自分の手機械とキーボード機械が接続し、文章という流れが新たに生み出されている…

というふうに、とりあえず自分が知る現象をその概念で記述してみるのだ。それがうまくいくと、概念がどの現実と対応しているのかが理解できるし、それによって現実を認識するための枠組みが一つ増えることになる。うまくいかなかったり違和感を感じたりすると、またテクストに戻って修正する。そうして得た一つの理解を小さな要約としてどこかに書き留めておく(こういうことを繰り返していると原書に当たりたくなる瞬間が来る)。
 自分はこうした技術を『アンチ・オイディプス』を読むなかで自然と獲得した。一言で言うならば、インプットのためのアウトプットをときどき行うやり方である。この方法がベストかどうかはわからないが、今のところ、他のテクストでも大いに役に立っている。ドゥルーズ=ガタリが同書で述べている通り、「それが何か」より、「それがどう機能するか」を把握するほうが重要なのである。

乱読

 次は乱読について述べたい。正直言って自分にはあまり乱読の経験がないのだが、それでも卒論を書くなかで多少は実践しなければならなかった。そのなかで得た結論は、気になった本の目次を読んで、気になった章だけを読んでみることだった。ここではそのときの経験を書き留めつつ、今後の発展的乱読のための考察をしてみよう。
 まず、全ての著者の論文を丁寧に読む必要はないと思う。卒業論文を書く際には、まず漠然とした関心から良さそうな本を数冊手に取り、それらを通読した。すべて研究書だったので比較的はやいテンポで読み終えることが出来た。すると気づくのは、同じテーマについて書かれた研究書には、似たような記述がかなり多いという当たり前のことだった。そのうえ十冊ほど読み終えると、研究書ごとに、それぞれ分析の鋭さや深さが明らかに違うことがわかった。最終的に、そのテーマについての研究書のなかで自分が面白いと思ったのは四冊だけであり、しかも二人の著者の二冊ずつだった。それに気づいたときに思ったのが、「あれ?その二人の本以外、あんなにまじめに読む必要があったのか?」ということだった。もちろんそれぞれの研究書にはそれぞれの独創性があり、それに基づいて論文は構成されている。しかし、結局一週間後に自分の頭の中に残っていたのは、二人の著者の二冊ずつだけだった。
 次に、面白い本にしても全部を読み終える必要はないと思う。卒業論文の最終盤になると、自分が欲しい情報がかなり具体的になってくるし、時間に余裕がなくなってくる。そうすると自然にこうなる。「よし、図書館でそれっぽい本を見つけたぞ、あ、でも時間がないから全部を読む余裕はないな、ちょっと著者には申し訳ないけど、目次から必要そうな部分を探り当ててそこだけ読もう!」という具合。精読しかしたことのなかったころには想像もつかなかったが、なんとなく、あれはあれで充実した読書体験だったように思う。一冊を読み切ることよりも、わずか一章からだけでもその本からなにかを受け取ることのほうが、はるかに重要だった。
 そうしていつの間にか、①本を手に取る、②目次を見て興味のありそうな章を探す、③その章から面白そうな議論を探す、④良い記述があればメモする、というフローを繰り返すようになっていた。
 最後に、いわゆる古典と呼ばれるような本にも乱読の可能性があるのか、少し考えてみる。卒論のなかで確立したフローは、あくまでわかりやすく書かれた研究書についてのものである。それと同じようなことが難解な本にも適用できるのだろうか?そこで思考のたたき台として浅田彰の『逃走論』から軽く引用してみる。

 マルクスの『資本論』なんて、どう見ても寝っころがって読むようにできてる、しかも、そうやって拾い読みすると実に面白いんだな、これが。

「ツマミ食い読書論」『逃走論』

 経験則からすると、『資本論』を寝っ転がって拾い読みしたところで、一つ一つの文それぞれを理解するのも、マルクスの理論体系を詳しく把握するのも難しい。全体の文脈の中でしか理解不可能な一文があり、一文の蓄積からしか理解不可能な全体があるのである。しかしそんなことを浅田彰氏が承知していないはずがないだろう。ここから考えられるべきなのは、そもそも普通の精読とは目的を異にした読み方があるということである。つまり、全体をちゃんと理解しようとするのではなくて、寝っ転がるくらいの軽い気持ちで面白いところを収集していくような読み方である。浅田氏はその可能性を主張している。
 そうと分かればあとは試しに実践してみるだけである。しかし古典には往々にして、なんとなく威圧感がある。「お前、まさか俺の本を読み飛ばすつもりじゃねえだろうなぁ?」と著者がメンチを切っているような気がするのである。著者がレジェンド級の場合、テクストの大体は細部に渡って粘り強く思考して書かれてあるので、それを読み飛ばすと彼らの努力・才能・苦悩をポイ捨てしているかのような罪悪感に駆られるのである。自分が卒論で『監獄の誕生』の試験についての分析だけを読んで引用したときには、あのメガネをかけたスキンヘッドがこちらを見下しながら「もちろんあとで全部読むよね?」と語りかけてきた。幻覚ではない。しかしあのつまみ食いが、一口だけで非常に高い栄養価を持っていたこともまた事実である。それならば、あの重々しい名著たちのそれぞれは、思いっきり痛めつけるくらいの気持ちで対峙すると乱読にはちょうどいいのかもしれない。

優先順位の問題

使い分け

 以上では、精読と乱読について整理してきた。これからは、それら二種類の読みをどのように使い分けるべきかについて考えてみたい。そのために注目すべきは、①その本自体の性質と②その本に対する自分のスタンス、である。

本の性質

 本の性質が、読み方をある程度指定してくることがある。例えば新聞記事を読むときに部分的に要約を作り概念を――とやろうとしてみる。でもそれは、新聞記事が平易な語彙で一読明快に書くことを優先している以上、いくら意図的にやろうとしても難しいことだ。暖簾に腕押し状態である。もちろん、かけた時間に対して得られる知識量がものすごく落ちるという問題も出てくる。新聞という形式そのものが精読を拒否しているとも言えるだろう。
 逆に、かなり精読に向いていそうな本もある。たとえばスピノザの『エチカ』などは最たる例だろう。数ページパラパラめくってみるとわかるが、「定理1、AはBである。よってCが成り立つ」みたいな文の羅列であり、論証の形式で話が進んでいく。そうしたテクストを斜め読みしてみてもほとんどなにも得られないだろう(ちなみに『エチカ』にもところどころエッセイみたいなパートがあり、そこは普通に読めるしすごく面白い)。新聞記事と『エチカ』を同じように読むのは難しく、それはこちら側の問題であるというよりは、テクスト側の性質の問題である。

スタンス

 本の性質があちら側の問題であるとするなら、「読む」の使い分けにはもちろんこちら側の要因もある。つまり、自分がその本をどのように位置づけているのか、である。
 またまた『資本論』を例に取ろう。まず、1960年代の大学生の青年をイメージしてみよう。彼は20歳を迎えたばかり。成長するにつれ、だんだんとこの世界の残酷さが見えてきたのだが、当人は大学生、社会のエリート街道まっしぐらである。この矛盾をいかにせん。その葛藤を抜け出すべく、彼は同時代の青年らとともに「運動」に参加することを決意する。そんな彼にとって『資本論』はまさに人生の指針であり、それを十全に理解することが世界の真理を理解することと一致している。彼は友人たちと、眉間にしわを刻み込みながら、『資本論』を隅から隅まで精読することだろう。かたや先ほど引用した浅田氏。彼は『資本論』を寝っころがりながら拾い読みするらしいが、おそらくそこに世界の全てがくまなく書かれてあるとは考えていない。むしろそれは世界中にある様々な議論の一つに過ぎず、それゆえ寝っ転がりながら、一つでも自分に有用なテーゼを見つけることが出来ればそれでよい。
 このとき、60年代の青年と浅田氏はそれぞれ全く別の読み方を実践していると考えられる。その違いを生んでいるのは、彼らの能力というよりかは、彼らによる『資本論』の位置づけ方である。個人的には、ここに優劣の差があるとは考えられないと思う。ひとつのテクストをガチガチに読んでうんうん悩むことにも、栄養価の高いつまみ食いをすることにも、どちらにも意味がある。

審美眼を鍛える

 よって必要なのは、本を少し読んでみて、その本が精読を要求するのかどうか、そしてその本が自分にとってどれくらい大きな意味を持ちそうなのかを見きわめる能力である。これができれば、あとはそれぞれの性質に応じた読み方を実践すればいい。これを大まかに分ければ以下の図のようになるだろうか。

手書き。

 かなりの程度精読が必要で、なおかつ自分にとって重要度が高い①の場合、思う存分精読しまくるのがいい。想像力を駆使し、概念をこねくり回して頭をエクササイズする。ただし、ひとつのテクストの完全な解釈はないと考えた方がいい。それを探求するのは一生事である。そんなつもりがなければ、そのテクストの概念連関が腑に落ちるまで読めばそれで十分だと思う。
 あまり精読を必要とせず、なおかつ重要度が落ちる③の場合は、目次から面白そうな箇所に目星をつけ、それを斜め読みすればいい。わかりやすい乱読である。「一文でも面白い記述があれば儲けものやな〜」くらいの気持ちでページをペラペラめくり、全然いい予感がしなければ早い段階で途中放棄したほうがいいだろう。そのさいに、必ずしも行間を読むための想像力を駆使する必要はないように思う。
 自分にとってかなり重要だがそこまで読みづらくない、あるいは自分にとって重要度は比較的低いが読みづらい②の場合は、①と③の中間をとると良さそうだ。すなわち、面白そうな箇所に目星をつけ、そのうえでその箇所を丁寧に読めばいいのではないだろうか。これは精読とも乱読とも決め難い。たんに斜め読みをするのではあまり理解できないか、重要な深い意味を見落とすおそれがある。決めた箇所についてはしっかり著者の姿勢を探るための想像力を惜しまず、よく咀嚼するといいだろう。ここでもまた、自分に刺さるテーゼをうまく拾えればいい、くらいの気持ちで読むのがいいだろう。
 以上をもっと雑にまとめると、読みの深さにはいくつか分岐点があると考えられそうだ。第一の分岐点は、行間を読む、あるいは著者の姿勢を探るための想像力を駆使するのか否か。第二の分岐点は、あるテーゼについて、著者の他の記述と整合性が取れるように努力するのか否か。前者を想像力の次元、後者を整合性の次元と呼ぶことにすると、①・②と③は想像力の次元で分岐しており、①と②は整合性の次元で分岐している。想像力の次元では、大体はテクストの性質が分岐を決める。整合性の次元では、自分のセンスが分岐を決めることになるだろう。

結論

 結論として、精読と乱読という2つの読み方があり、それらはテクストの性質と重要性によって使い分けられるとよさそうだ。さらにひとくちに精読と言っても、全体との整合性を意識するのか否かでその労力は大きく変わる。これが全部読むのか部分的に読むのか問題につながる。そしてそれを決定するのは結局自分自身の審美眼ということになる。これについてはまだ明確に言語化出来そうにない。実際にいいかはわからないが、今のところこれが自分の現状だ。
 なんだか、まだ院生になってもいないのにまるで博士二年目くらいの気分になってしまった。こういうのを社会学では予期的社会化とかいうふうに呼ぶらしい。そんなことはどうでもいいが、6、7時間のいい暇つぶしになった。今見ると9500字弱にもなっているが、こんなに長く書くつもりはまったくなかった。暇つぶしだからいいか。
 ここでは、はじめてアカデミック・ライティング的な書き方を意識的に実践してみた。卒論を書くときに全然意識せずに済ませたことに対する自分なりの後悔と反省の証である。じつは本当の眼目はここにあったりする。詰めは全然甘いが、普段よりかなり書きやすくはあった。それが予想外にたくさん書いてしまったことの理由なのだろうか。全体的に、いい暇つぶしだったと思う。これからも練習がてらいろんなものを書いてみようかな。

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