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雑記:救うとかふれるとか

救うとか、助けるとか、支えるとか、ケアするとか、高校生のときはそういう言葉を無邪気に信じていた。けれども現実には、人にはどうしても出来ることと出来ないことがあって、私たちはその可能性と限界の間でしか他人と関わることができない。誰かある人を「救おう」と決意するときの重さ。高校生の自分はそれを知らなかったのだと思う。

鷲田清一が「さわる」と「ふれる」の違いについて論じていたのを思い出す。相手の表面を「さわる」のとはちがって、「ふれる」には自他の境界を乗り越える作用がある。心がふれるときも、気がふれるときも、「ふれる」ためには自分という枠組みを一時的に解体して、他者に接近しなければならない。そしておそらく、他者を救う、助ける、支えることは、「ふれる」ことに含まれる。

他者を無制限に救うことは、他者に無制限に「ふれる」ことだ。そこには、優しさとか温かさだけでは捉えきれないような、泥沼のような地獄の入り口が潜んでいる。無制限に「ふれ」てしまえば自分を殺すことにつながるし、他者をめちゃくちゃにしてしまうこともある。だから、誰かを「救おう」という決意は、本来は果てしなく重い。

誰かを「救う」という名目のもとで自分のことを殺したがっている人もいる。そういうのを精神分析の言葉でマゾヒズム(いわゆるSMのとは少し違う)というらしいが、マゾヒズム的な愛はものすごく卑怯だと思う。「救う」ことの本当の重さから目を背けて、ただその語感だけで自己を正当化しているように見える。他者を尊重しているように見えて、実は「ふれる」ことの責任から逃げて人を道具のように扱っている。それでも「その人のためだから」という態度をとるのであれば、それは卑怯なことでしかない。もしかしたら言い過ぎなのかもしれないが。

そのうえで私に出来る救い、ケア、支えとは何なのか考えてみる。たとえば、料理を作ってあげる。美味しいお菓子を買ってきてあげる。少し気持ちが乗らなくても飲みに付き合ってあげる。話を聞いてあげる。他には、「その人のため」だなんて本気で考えすぎないことも大事だ。本当に少しだけ、それくらいだろう。今はひとまずそれでいいと思う。

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