見出し画像

洗練と都市性について(2024,03,02)

 インド第二の大都市ムンバイに、洗練という文字は似合わない。極端なまでに進んだ大気汚染、差し出された物乞いの手のひら、見るに耐えぬバラック街、鳴り止まぬクラクションの音、突き刺すような日差し、そのどれもが私たちの感覚器官を逆撫でにしてくるようだった。そこは「都市」といわれて想像しうるものからは程遠い、生きたカオスだった。
 もちろん場所によっては十分に都会的なセンスを感じることもできる。ビジネス街にある最新の巨大なショッピングモールは、東京でも滅多にお目にかかれないほど立派な造りだった。きらびやかなモール内にはおもむろに現代アートなんかが設置されており、グッチやエルメスなど世界的に有名なブランドショップが立ち並んでいた。けれども内装の豪華絢爛さとは対照的に客足はまばらで、食品のセレクトショップに観光客と富裕層がほんの少数いただけだった。あとは富裕層たちが書店で「愛」をテーマに英語でスピーチしあうという奇妙なイベントが行われていたが、参加者たちの訛りがきつすぎて、私にはほとんど聞き取れなかった。ちなみに、併設されていたコーヒーショップの店員さんの英語は非常にクリアだった。
 英語で愛についてスピーチしたがるような人はやはりごく少数であり、ムンバイに暮らす大多数は、排気ガスや砂塵に塗れたカオティックな街のなかで何食わぬ顔をして生きる人々である。豪華なショッピングモールのすぐ外には、観光客をだまし取ろうとするリキシャドライバーの青年が偽物のグッチTシャツを着て私たちを待ち構えていたし、そこから少し進むと信じられないほど傷んだバラックたちが所狭しと建ち並んでいる。善も悪も快も不快も美も醜も入り混じったあの都市に暮らす彼らからは、過酷な場所でも根を張り養分を吸い上げようとする人間の逞しさを感じた。乱雑に建ち並ぶビルと、その隙間からこぼれ落ちて街を埋め尽くす人々の群れ。その一人ひとりに暮らしがあり人生があることを想像するだけでも目眩がするようだった。ムンバイは、東京や大阪なんかとは比べようもなく"都市"なのである。そして都市とはおそらく元来、雑多で猥雑きわまる場所だったのだ。

 香港も、雑多と言いきってしまって差し支えない大きな都市だった。私たちが泊まったチョンキン・マンションは目も眩むような多国籍空間で、香港のビルらしい無秩序に設置された大量の室外機と、どこからか滴り落ちる水滴、聞いたこともないような外国語が飛び交い、異様な雰囲気を放っていた。香港は土地が非常に狭く、ムンバイと比しても窮屈に見えるほどに高層ビルが密集している。そのほとんどが、アジアのコンクリートビルによくあるような、生活の寂しさが滲み出るような古び方をしていた。路地裏に入れば、嫌に湿気た薄暗く細い道、しかも時折鼻をつんざくような科学的な異臭がする道で、怪しげな露天商が観光客を呼び込もうと目を光らせている。

チョンキン・マンションから見下ろした屋外
曇天の九龍


 例外的に九龍の対岸にある中環(central)ではアート文化が盛り上がっているようで、特にコンセプチュアルな現代アートの展示が盛んに行われていた。

展示室


 私が見た「青蛇:女性中心的生態學」(https://arttechtalks.com/tai-kwun-green-snake-women-centred-ecologies/)という展示は、文化人類学を中心とするアカデミックな文脈をよく踏まえた作品が印象的で、日本で見たことのある中途半端な展示よりもよほど完成度が高くて感動した記憶がある。
 しかし多くの人々が暮らしているのは、ガラクタでできたような雑多な街である。密集したビルによって狭められた空は分厚い雲に覆われており、歩くだけで雑踏のなかに消えてしまいそうな感じがした。チョンキン・マンションに限らず香港の古いビルには、ネオン・サインのロマンよりはむしろ妙な寂しさを感じてしまう。いくら宿泊した部屋が清潔で綺麗だったとしても、いくら洗練されたアートを楽しむことができたとしても、その寂しさを頭から完全にかき消すことなんてできなかった。

 一方インドのケララ州は、大都会とは決して呼べないものの、ものすごく調和のとれた場所だった。男性はズボンの代わりに薄い布を腰に巻いてサンダルで歩くし、あたりは亜熱帯の植物だらけ、虫もそれなりにいるし、大通りから外れた道は踏み固められた土で出来ている。しかしそれでも、息が詰まるほど窮屈なビル群も、劇物のような臭気も、見たくもないような汚水も湿り気もほとんど見当たらない。代わりに、大きな川辺と生い茂る木々の緑がある、といえば誇張になるだろうか。人々は親切で、英語もよく通じるし、エコロジーに対する問題意識もあるようで、教育水準の高さが伺える。昨今の先進国ではオーガニックとかヴィーガンとかいった言葉が定着しつつあるが、ケララの食べ物は大体オーガニックでベジタリアン仕様であり、それが普通で常識である。先進国の都市生活者が取り戻そうと躍起になっているナチュールが、生活のなかに織り込まれているのである。

ケララ州の伝統的な昼食


 ケララは全体的に、ムンバイや香港や東京に比べたら全くもって都市的とは言えない。しかしケララに居たあいだは、鳥の声で目覚めたり、伝統的な朝食を食べたり、ほとんど裸でバドミントンしてみたり、これまで体験したことがないほど調和のとれた統一感のある生活を送れていたような気がする。別に街や宿が格別に現代的であったわけではないし、むしろ現代日本の平均と比較するとルーズなところが目立つと思う。じっさい、ケララの宿にいるあいだは上裸に裸足がデフォルトになっていたわけだし、蚊にもたくさん刺された。それでも高層ビルのないケララでの生活には、内的な統一性があり、人間的なテンポがあり、健やかさがあった。そこでは確かな、生活すること自体に対する充実を感じたし、人間として生きるってこういうことなのか?とすら思った。現代的でも都市的でもないが、ムンバイや香港、あるいは東京やパリでの毎日と比べてしまえば、生活様式としてはよほど洗練されていたような気さえするのである。都市的であることや医学的な意味で衛生的であることと、文化的に洗練されていることは、全くもって同義ではない。
 私たちは漠然と、都市は洗練されたものであり、それ以外の田舎は野暮なものであると考えがちである。しかし都市的であることと洗練されていることのあいだには、ほとんど因果関係はないのかもしれない。きっとそれぞれの場所や人にはそれぞれの洗練の仕方がある。それゆえ私たちが健やかに生きるために重要なのは、必ずしも都市的であることを含意しないような意味で、自分自身や生活を洗練させることなのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?