見出し画像

古東哲明『瞬間を生きる哲学ーー〈今ここ〉に佇む技法』を読んで(2024,05,14)

今日の3限目にO先生の講義に出席した。
現象学の講義で、訳文と原文を照らし合わせながら、テクストをゆっくり丁寧に読み解いていく。重要なのは、単にテクストの内容を読み解くことではなくて、文体のきめの細かさ、つまりテクスチュアにも気を配ることだ。

受講生は私含めて2名で、進行がゆったりだから、そこまで予習に時間を取られることもない。大学院に入ってからは以前よりもあくせく動き回る生活になってしまった。古い英語の論文や難解な本を急いで読まなければならなかったり、研究発表の資料作りや統計学の勉強、バイトやTAの仕事などにやや追われつつある。そのぶん、時間を気にせず、いや、あえてゆったりと、たとえばreflexiveとreflectiveの違いについて30分以上考え続けるこの講義の時間は貴重である。

この授業のテーマは"生きられた経験"である。生きられた経験とは、ひとことで言えば没入的でリアル・タイムな意識のあり方のことである。それは、過去や未来についてあれこれ反省的に考えるような思考の反対物だ。生きられた経験は、自分自身を客体化し、分析して管理するような意識とは無縁である。「感性が開かれた感じ」であり、その瞬間を生きる非反省的な意識である。綺麗な景色に見惚れてボーッとしているうちにいつのまにか長い時間が流れていたり、楽しいことに時間を忘れて熱中したり。そこには、生きること自体のヴィヴィッドな感じが織り込まれているのだ。

今日はもう1人の受講生が電車を間違えて遅刻したので、もう1人が到着するまではO先生と雑談していた。こういう雑談の時間も、この授業の特徴かもしれない。結局もう1人は5分くらいで到着した。

もう1人が到着したあとも、「〇〇さん、××って劇団に入ったんだって?」とか、「劇団の経営っておもしろいね」とか、「いま舞台制作のための材料費が高騰してて」とか、雑談の時間は10分以上続いた。そうすると、最初は何も気にせず雑談していたのに、だんだんと体がムズムズしてきて、「はやく授業進めないのかなぁ」とイライラし始める自分がいることに気づいた。普段から私はスケジュール嫌いで、気分にまかせて何かすることをより好むし、あと先考えずに瞬間瞬間を楽しめた方が絶対楽しいと思っている。それでもその時、依然として穏やかに雑談し続ける2人を前に、時間を急く強迫観念を自分のなかにはっきりと発見して、軽いショックを受けてしまった。

本来、時間そのものに目的なんかあるはずがない。それなのに私たちは生き急いで、勢いやノリを全く無視して「この時間は〇〇をやるための時間だ」というふうに考えている。スケジュールを組んで時間に目的を割り当てることは、もはや私たちには自明すぎて認知しづらいが、もともとは工場のリズムであり、監獄のリズムである。こういう感覚は、間違いなく私たち自身の生きられた経験を殺す方向に作用する。

私たち自身が、無為な時間を減らして有為な時間を作り出そうと躍起になるように作り替えられていると言ってもいい。無為な時間には生産性がないと考え、無為な時間を減らすためであれば「有為な楽しみ」すらも無理くりに作り出す(たとえばレジャー施設は家族の有為な休日の楽しみとして作られた)。そして大きな視点で見れば、それが企業の経済的な利益になるようにもなっている。私たちの世界は、こういう無為を省く感覚なしには成り立たない。しかしそこには、生きられた経験の充足感を疎外してしまうという暗い側面もある。

少し手間をかけて作った味噌汁と炊き立ての白米に満たされるとき、夕暮れに親しい人と何気なく散歩する時間、おもしろい映画を観たときのあふれ出る感情。そういう充足感だけはほとんど意図的に死守しなければならない、とほぼ自戒を込めて思う。そうやって〈今ここ〉に佇む技を生活のなかで編み出すことなしには、楽しく生きていけるような気はしない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?