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「よくあんなブスとつきあえるよな」みたいなこと言うやつ

私は自分を博愛主義者なのか、まあただの性善説に傾倒している人間か、などと自己評価しています。この話には多分落ちはなくて「~こう思うんだよね」で終わると思います。

例えば近所の友達同士で他の友達の恋人について評議し合う場面があったとします。そういった場面によく出てくるセリフがこれです。往々にしてこれを発する人はモテるようなひとで、自己評価が高い人でしょう。

これを聞くと大変に悲しくなります。なんというか言葉の重みをあまり理解していないのではないか、とか本人が聞いてたらどうすんだとか変な心配をしてしまうのです。何よりもその子と付き合っている彼はどう思うのか、まことに度し難い表現です。

経験と言葉の関係、コミュニケーション

言葉を使われる場面では発話者と受話者がいますが、それぞれが違う経験をもってバックグラウンドが大きく異なります。

告白の場面、「好きです、付き合ってください」、これを軽くあしらう主人公。そして次の場面、告白現場を見ていた主人公と親しい者が「あいつがどんな気持ちで告白したかわかるのか?もう少し伝え方ってものがあるんじゃないか?」といいます。そうすると主人公はハッとなってもう一度告白をしてくれた人の元へ向かうのです。

よくある恋愛物語の位置シーンですが言葉にはその意味の何倍もその言葉に係るバックグラウンドがあってそれを多くの受話者は理解できないし、理解できないからこそコミュニケーションは面白いとも言えます。

少し以下映画のネタバレが入ります。まあほぼ根幹には触れないのでおそらく問題ないかと。

映画『君の名は』の1シーン、ヒロインが主人公に会いに行くシーンがあります。すると事情があってヒロインのことをつゆも知らない主人公は「誰?おまえ。」と話しかけてくれたヒロインに少し変わった赤の他人に返すような冷徹な言葉を返します。ヒロインには主人公と親しく過ごした日々があって、何日も悩んだ結果何時間もかけてやっとのことで主人公に相対しますが、これを主人公は知らないのです。主人公から発された言葉はヒロインの中で彼女の経験に基づいて意味づけされます。

ヒロインは主人公と経験を共有している、しかも例を見ないほど高い純度で共有していると思っていますから、非常に悲しい気分になったでしょう。主人公はヒロインとの経験は0で全く知らない人に名前で呼ばれ気味悪がっているでしょう。彼女の経験を推察できればよいのですがあいにくそれはできそうもないほど彼女の経験は特殊です。詳しくは映画本編で。今回の話にぴったりな映画です。

ほとんど映画では涙するような感動をしない私ですがこのシーンはほとんど初めてうるっときました。

言葉があって意味があるのではありません。言葉はほとんど取っ手のようなものでしかなく、経験によって意味があるのです。最もその経験を100%共有することは不可能です。だからことばを受け取る側も発する側も相手の経験を会話の文脈から帰納するしかありません。これがコミュニケーション能力だと考えます。

私の経験から見る私の性善説的思考

私はいじめられたことが二回、人をいじめたことは3回あります。恥ずかしさからか、告白されることを察知して事前に適当に回避してしまったことが何度かあります。社会的に優れている人から、そしてそうでない人からそういう状況にあったことがあります。ものを盗ったこともあるし盗られたこともあります。

先のようなブス発言をしばしばするのが私の友人の輪でしたから中学生時代チョコを日頃から仲良くしていた社会的に優れていない子に渡されようというときにあろうことか私はそれを拒絶してしまったのです。これは一生後悔していますし、その後今に至るまで様々なチャンスを人の目を伺ってばかりいることから物にできず残念な人生を送ります。

どうすればいじめられ、どうすればスクールカーストのトップグループを占められ、どうすればモテるのか、こういったことを広く浅くティーンエイジャー時代に学んできたつもりです。そうすると例えばいじめているやつ、いじめられるやつ、人に意地悪をするやつ、ものを盗るやつ、様々な人について別に悪い人ではないしよんどころない事情があるのか、未熟なのか、など性悪説的な立場は取れなくなります。なぜなら、自分が悪行をする主体であったとき、私はよかれ、と思ってしていました。ここでいういい、は善いの意味で正しいというよりは「ためになる」といった感じのニュアンスです。なんのためかはその時々ですが。

人間好きも大概に?

こういう考えに至って私はいま人間が好きでたまりません。例えば満員電車も割と好きです。不潔であることは今夏の話とはちがって普通に嫌いですがそれ以外の人は基本好きです。東京に行くとどの通りも人がいて人で溢れています。人を見てその仕草や行動からその人の経験を推察することが好きなのです。例えばSHIUYAMELTDOWNというTwitterアカウントがありますが、あそこに掲載されている人たちはどうしてこうなったのか、どういう経緯でここまで泥酔することになったのか、ここまでこの人を泥酔させたものは何なのか、興味がありあまります。そこにある写真は一つの芸術と言っていいかもしれません。


よく泥酔して街で騒いでいる人や路上で寝ている人が嫌いという人がいますが私は以上のような意味でどちらかといえば好きです。犯罪はいけませんけどね。こういう感覚は例えば町並みが好きだったり、歴史が好きな人と同じものかもしれません。

まとめ

なんだか眠くなってきたので切り上げます。人間関係とかコミュニケーションは相手の経験の近似を帰納できればうまくいくでしょ、という話でした。また追記したり変えるかも。兎に角集中力が切れたので上がります。

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