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厄災と奴隷鬼〜ニセ赤ちゃんと「ママ」たち〜(人を人と思ってない方に遭遇したときの独自ガイドライン)



前書き


我々は自分の命と心を守らなければならない。

「“厄災”と相対したとき、人はどうするべきか」。
このことについて考えた結果、私は呪的逃走に至りました。これは私に作れる最大性能の「ラーの鏡」です。「人を人と思っていない存在」と接触したとき、人はどうするべきか。

※この記事は「人を人と思っていない」行為について書いてあるので、「人を人と思っていない人」から最悪の仕打ちを受けた経験があり、フラッシュバックで死ぬ可能性がある方は読まないで下さい。
(専門の機関などにヘルプを求めてください)


●厄災の概要

1. レイプ犯。保育園に勤めて犯行を繰り返している小児性愛者
2. iPhoneを盗んだ上で指紋認証を突破するために持ち主の手を全部切り落とす人
3. テロ行為を是とするカルトの教祖

厄災はこれらの人物と同程度に危険ですが、基本的に捕まらない。存在が認識されていない。説明難易度が極めて高い。基本的に被害経験者にしか話が通じない。

この世は厄災以外の人間が無限に負担を負うシステムになっている。人の命や心は厄災パーティのおつまみ。厄災は人を人だと思っていないから。フィクション以外でそんなことになるのは悲しい。なぜ厄災取締法がない。

厄災取締法がない理由:厄災が奪うものは主に「形の無いもの」「換金できないもの」だから。被害者たちは「善意」につけこまれ、「なし崩し」的にあらゆるものを差し出しているから。

●厄災が悪い

厄災からの被害に関しては、厄災が全部悪いと私は思う。人と人とのやりとりで「一方が全部悪い」とか、そんなことは基本的にないと思うのだけれど、例えばレイプ犯は被害者に対して一方的に悪い。それと同じことが起きている。厄災は基本的に責任を取らない。頑張ってはくれない。


●命を守らなければならない

我々は自分の命と心を守らなければならない。できる限り「やりたいこと」を行い、「報われたい形」で「報われる」ように、命を使っていくべきだと思う。あなたも私も、楽しく暮らすしかない。

「人を人と思っていない人」。つまり「厄災」に遭遇したとき、人が陥る状態・対策について書いています。これは私の呪物です。私は呪的逃走を行う。

呪物・魔術について:
私にとっては、「ルーン文字」がどうとか「タロット」がどうとか「香木」がどうとか、そういう話では「ない」。悪魔召喚とか精霊とかそういう話でも「ない」。統計や医学で巻き取ることのできないN数に流れるルールを読みながら、「生命」に作用するための動きすべてが魔術。その副産物が呪物。「要素の抽出」「意識変容を伴った諸“法”」。

※急場で大変な方は★付きの項目を参照して下さい。
というか病院かカウンセリングか最寄りの専門機関に行って下さい。


第1章 「命」「心」「脳」の定義


1 命

命とは時間のことです。

私はミヒャエルエンデの信者なので、命とは時間のことです。(参考:ミヒャエルエンデ「モモ」

どう使うか。どう生かすか、どう殺すか、どのように楽しむか、どのように苦しむか。それら全て、あなたの手に委ねられているべきもの。


2 心

「心」とは何だと思いますか?
この世を咀嚼するために必要な、顎(歯や舌を含める)。境界装置。自他境界。

不快なものや、美しいもの、楽しくなるようなものに出会うとき、人は自分の心、世界との差異を感じるものだと思います。「世界との差異を感じることができる」装置のことを私は「心」だと考えています。

顎(歯や舌を含める)。顎と同じ程度に鍛えることが可能。
「顎」程度の個人差がある。それが心。

「心」そのもの自体に、大きな個人差はないと私は考えています。「好き嫌い」はあれど、「固い物を食べるのは大変」のような原則に忠実な器官。
歯、舌の好み、筋肉量の差などはあります。しかしそれら器官のありようよりも、「何を食べているか」のほうが身体にとって重要です。「何を食べているか」のほうが、一般的に言われる「個人差」「表現」にとって、「心」そのものの有り様より大切なのです。

“「心」は顎(歯や舌を含む)ではない”という前提によって、「個人差」の「程度」が誤認され、「この世の負担が不本意に著しく偏ること」を防ぐために、私はこの定義を用います。心は、顎(歯や舌を含める)。


3 脳

脳=ある程度の操縦が可能な「消化器官」だと考えています。


世界を「食べた」後、心によって世界が処理された後に、それについて「どうするか」判断することが可能な装置。心(顎)によって咀嚼したものを消化して再構成していく器官。心に命令をして「なにを食べるか」「何を栄養とするか」決めていくのも、「脳」。

ここで生産される「栄養」とは主に「理解」のことです。

人生で何を食べて何をどう咀嚼し、それをどう「栄養とするか」という点で、心=顎や脳=消化器官の使い方が問われる。

「ガラスでも消化できてしまう体質」の人、「腐った物でも問題なく消化できる」体質の人、「何を食べてもアウトプットに癖がある」体質の人。
いろいろな「体質」の方がいるものの、「腐った物を食べれば具合が悪くなる」のような原則には忠実な器官。(腐った物を食べ続けた結果として耐性がある人間はいるが、だからといって積極的に腐った物を食べさせてはいけない)


4 人生

身体そのもの。「命」「心」「脳」の働きで作られた「結果」。

それを通して「外」に表現されるもの。
「人生」に深刻なダメージを与えてくる存在を私は「厄災」と呼んでいます。

第2章 厄災とは何か〜奴隷作り名人・マインドコントロールの天才・善意の穀潰し〜


★1 厄災の定義

厄災は避けられない。

厄災は「一生成長することがないのに地位と名誉を求めている赤ちゃん」です。常に「ママ」を探しています。厄災被害とは「赤ちゃん詐欺被害」のことです。「道ばたで赤ちゃんが倒れている」のを無視することができない人は、誰でも被害に遭います。

先述したミヒャエル・エンデの「モモ」で描かれる「灰色の男」のような存在とも言い換えられます。

・マキャベリアニズム
(理解:人間関係を操作する。マインドコントロールを行う。)

・サイコパシー
(理解:他人の痛みに対する共感の欠如。自分が得するためだけの嘘をつく。)

・ナルシシズム
(理解:自分も、他人も、好きではない状態。)

上記3つの特性を兼ね備えた、深刻なモラルハラスメント加害者「のような」存在。(参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/ダークトライアド

私は精神医学などの専門家ではありません。ですからこの文章は「ひとりの人間が「厄災」とその被害者を観測し続けた結果として、呪的逃走に至るまでの“理解”」としてお納め下さい。

「上記にあてはまる特性を持っている」ことそのものは問題にしません。
厄災から奴隷にされた結果として、心や脳が破壊されて「そのように見える」「そう振る舞わざるをえなくなっている」被害者もいるからです。

彼らはターゲットと「自分」を同化させます。相手の「人生」を奪い、自分のものにします。ターゲットや周囲に「咀嚼」や「消化」を代行させます。


●おいしいところだけ

厄災は「咀嚼難易度の高い物」や、「腐った物」の消化活動を人に押しつけます。そして「栄養」や「人生」の、おいしいところだけを吸い取っていきます。

そういった「厄災の行動」「厄災の話」は「どうしても腐っている」ので、被害者が厄災について他人に話した瞬間「腐っている物の咀嚼、消化を人に負担させている状態」になることは不可避です。

どんなにわかりやすく話そうとしたところで、「それが充分に消化・栄養化済みのものである」と判断するかどうかは、話を聞いた側の心と脳に委ねられています。一般的に、人は「腐った物」を食べたくありません。

厄災から被害に遭った人の「心」や「脳」は深刻なダメージを受けています。いくら能力の高い人であっても、「腐っている物」と「そうではないもの」の判断が、うまくつかなくなっていることはあります。「自身の咀嚼能力」「消化能力」について把握し切れなくなることも仕方ないと思います。おそらく私も「腐った物=厄災の話」を、散々人に食わせてきました。

被害者は「誰しも1人分しか持ち合わせていない咀嚼や消化能力を、厄災の分までなし崩しに負担させられていた」関係で、「自分は咀嚼と消化が十二分にできる」という意識と「もうできない。疲れた。誰か栄養を分けてくれ」という意識が混在した状況に置かれます。

●厄災排除は「不可能」

特性の話を問題にして「厄災の排除」を目指すと、大量殺戮や同化政策、戦争を行っている方と同じ発想になりますので、選びません。ここでは厄災が「他人を搾取しながらその人生に深刻な害を齎している」ことを問題とし、「排除」を目的にしない話をしていきます。

厄災は人の形をとっている。だから、誰も厄災を殺してはいけない。誰も厄災を攻撃できない。これを読み、どなたかが公に「厄災」と紐付けられることも私は拒絶しておきます。


●奴隷

人は厄災に遭うと奴隷にされます。

奴隷が奴隷を離脱するとき、厄災は奴隷について対外的に「あいつは厄災である=あいつは赤ちゃんである」という印象操作を行います。自身が厄災だとバレるわけにはいかないからです。ですから、「厄災排除論」を唱えることは不可能だと私は考えます。被害者に対する二次加害に繋がりかねないからです。

被害者が厄災に対抗して、「自身は赤ちゃんではない」ということを証明しようとするほど、厄災は「ほら、あいつは感情が抑えられていない。注目をされようとして、なりふりかまっていない。危険な赤ちゃんでしょう。」ということを周囲に信じさせるよう、言います。「信じさせる」仕組みを厄災は用意して・採用しています。

命が脅かされている場所からはなんとしてでも逃げて下さい。人生や栄養を死にそうになるほど吸い取られている場所からは逃げて下さい。逃げるのが無理であれば、何も渡さないようにしてください。「おかしい」「おかしくない」「赤ちゃんである」「赤ちゃんではない」は問題ではありません。「あなたの命が脅かされていること」が問題です。

あなたはおそらく厄災からマインドコントロールを受けています。そもそも、厄災は赤ちゃんではないので、「助けなくて」良いのです。相手は成長しません。責任も取りません。とにかく自分の人生が吸われないよう、まずは命を守って下さい。あなたは化け物からママ扱いされています。

★2 厄災と厄災被害


厄災はどこにでもいる。人を巧妙に操作する。手段を選ばない。平気で嘘をつく。事実湾曲ベースの、言い逃れを行いやすい、被害に遭った人が絶句するしか無いような、一番タチが悪い嘘をつく。対峙した相手の「正義感・責任感・罪悪感・倫理感・善意」などにつけ込んで、奴隷にすることに長けている。捕まらないテクニックを持っている。嘘をつくのが下手な人のことを、ただのバカだと思っている。被害者の人生に深刻なダメージを与える。

被害は金・関係性・信用・仕事などにも及びますが、厄災が最も深刻な被害を与えるのは「人生」です。命と心と脳です。

なぜか。厄災は人を人として認識していないからです。
厄災の「妥当」「不当」の判断はバグっているからです。

厄災は何故「妥当」「不当」の判断がバグっているのか。
厄災は「他人の命」や「他人の心」が認識できていないからだと思います。


●「ママ」=奴隷

厄災のことは、ニセ赤ちゃん(悪魔)だと思って下さい。

原則成長はしません。「面倒を見ることを全員で放棄すれば」成長するかもしれませんが、厄災は自分を「赤ちゃん」として誤認させることに人生を注いでいるので、無理です。誰かが成長に期待をし、面倒を見てしまうので、成長しません。

この世には「入れ歯」(咀嚼の助けになるもの)があり、「本」(咀嚼と消化と栄養がセットになったもの)もあります。これらの存在を無視して「人の命を吸い取りながら咀嚼と消化を代行させ続ける」という生を選んでいる厄災に「何を言って=栄養を渡そうとして」も無駄です。成長しません。

「他人は厄災の命を守らなければならない。他人は厄災を自分自身よりも優先しなければならない。他人の命は厄災の物、厄災の命は厄災の物。厄災は赤ちゃん。おまえらは「ママ(奴隷)」。面倒を見ないやつは極悪非道の人物。」

厄災はこういった刷り込みを「誰にもバレないように」行います。厄災本人も「自分がそれを行っている」ということには気づいていないでしょう。

周囲の人間を「ママ」にすることに全人生を賭けている赤ちゃん。「ママ」が何もかも世話してくれないと満足しない。泣く、暴れる、かわいい振りをする。「ママ」とは何か。厄災にとって、シンプルな「母親」という意味を持たないと思います。厄災にとって「ママ」とは奴隷のことです。性別も年齢も関係ありません。

「厄災(血縁のある母親)から「咀嚼と消化」を代行させられ、ママ(奴隷)として人生を吸い取られているお子さん」もこの世には多数存在します。



●使えるか使えないか

使えるか使えないか。食えるか食えないか。飾れるか飾れないか。稼げるか稼げないか。褒められるか褒められないか。奉仕してくれるか、してくれないか。厄災は他人のそこにしか興味がありません。

「人の役に立ちたい」とか、そういった気持ちはない。言うことはある。「人に何か返したい」という気持ちもない。言うことはある。厄災と深く関わってしまったときに「命や心」に対して、厄災から「命や心を用いた報酬」が支払われることはない。基本的にはそのすべてが虚に回収されていく。厄災はあなたのことを「使える」とは思っていても、好きではないから。

●倫理観へのタダ乗り

厄災は「他人」に興味が無い。この世に「人間」が自分しかいない状態。
命を吸い取る、咀嚼と消化を代行させる。「おいしいところ」だけを持っていく。手段を選ばない。筋も通さない。悪そうなやつはだいたい「悪い」ということにして使う。良さそうなやつも「悪い」ということにしていって、使う。

関わった人が「搾取」を行われていて、かつそれが周囲からはバレない。

「厄災」「ニセ赤ちゃん」という概念は発達していないし、「厄災=ニセ赤ちゃんが倒れて泣いていた場合には、きちんと見殺しにしましょう」という社会通念も存在しないため、やりたい放題です。「困っている人がいたら、余裕のある人から助けましょう」という倫理観へのタダ乗りを行っています。

厄災は「なし崩し」の天才。ありとあらゆる手段で人の命を吸い取りながら他人の心と脳を利用し、対価を払わず、当然のように栄養だけを吸い取っていく。

奴隷とは何か。
命や感情や言葉やプライドや金、そのほか色々を厄災に貢ぎながら、厄災から「あなたの命には価値がない」「あなたには心がない」「あなたは私になるべき」「私はあなた」というような態度を表明され続けている人のことです。
厄災から「もっと完璧な“ママ”になれないの?こっちは赤ちゃんだよ」と言われながら「使われている」人のことです。

「奴隷作る人、厄災食べる人」。
奴隷は調理場・食材・献立などを提供している。咀嚼も、消化も代行している。厄災は、無料で栄養を吸い取っていくだけ。人生を奪い取っていくだけ。傍目には分かりづらい形でこれが固定されている。逃げて下さい。「あなたが至らないからそうなっている」とか「あなたが悪いからそうなっている」とか、そういったことは無いと私は思います。命が脅かされている場所からは逃げて下さい。

●「至る」

人は原則的に「至る」と判断した相手のことしか相手にしません。相手にされている時点で「至る」という判断が前提であるということを忘れないでください。「至らねえけど相手してやるか」と思って他人と関わっている方は恥を知って下さい。厄災は「ママ」として目をつけた相手に対して、「もっといい母乳をよこせ」「もっと高級なベビーカーに乗せろ」と難癖を付け続けます。

命が脅かされている場所からはなるべく逃げて下さい。命をこれ以上吸い取られないようにして下さい。咀嚼と消化を代行しないで下さい。あなたは「ママ」ではありませんし、相手は赤ちゃんではありません。倫理感につけ込まれて何もかも差し出すのは一刻も早く辞めて下さい。命が脅かされる場所からは逃げて下さい。


3 厄災の「自分」


●厄災の「自分」

厄災の“自分”とはなんでしょう。
「自分は赤ちゃんである」という強固な意識です。

厄災は最小限の労力で最大限のリターンを得ることに余念がありません。そのこと自体は悪いことではないのですが、この世には「礼儀」「筋」「倫理」「程度」というものがあるはず。一般的に厄災は咀嚼能力が低い(鍛えるための心、顎が未発達)なので、奴隷から吸い取ったものをそのまま「自分を良く見せる」「自分が得をする」「自分を被害者=守られるべき赤ちゃんに見せる」ためだけに吐き出して利用します。より期待値の高い赤ちゃんに見えれば、より善意ある人々から構ってもらえるからです。よりよい栄養を得られる可能性が上がるからです。

●赤ちゃんバレ防止

厄災は「赤ちゃんのふりをしている」という事がバレると誰の人生も吸えずに死にます。ですから「赤ちゃんのふりをしている」ということがバレないように全力を尽くしています。

厄災は対外的に「ママ=奴隷」を赤ちゃん呼ばわりすることがあります。
「どちらが厄災でどちらが奴隷なのか」判断に困ったときは、実際的に「吸われている」「理解=栄養を与えさせられている」のはどちらなのかを見定めるようにしてください。「この世に対して理解=栄養を生産しているのはどちらか」を見るようにしてください。※万能ではないので「死ぬ」と思ったら逃げてください


●ママバレ防止

厄災(ニセ赤ちゃん)に騙され「ママ=奴隷」をやらされすぎた結果「もう絶対にママ=厄災にとっての奴隷になりたくない」という心持ちで「自分、赤ちゃんなんで」という態度を選んでいる元奴隷はたくさんいます。素直な気持ちで「自分、赤ちゃんです」と言っている厄災もいます。
態度では何も判断できない。

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