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過去記事【人はなぜ「転ぶ」のか―― 人生で両手につかむものは?】


「アイタタタタタタタ……」
先日もそう言いながら、転倒したわたしは足首を何度もさすった。
 
自慢じゃないが、よく転ぶ方だ。
階段を踏み外し、段差によろめき、何もない地面にさえつまづく。
そばで見ていた人が目を丸くするほどに、いとも簡単にバランスを崩す。
 
原因は、自分でもよく分かっている。足下をよく見ていないからである。
 
春は、梅の木をカメラで撮ろうと後ずさりして、そのまま尻餅をついた。
夏は、一面に広がるひまわり畑を眺めながら歩き、バランスを崩して地面に手をついた。
秋は、道路を埋め尽くした落ち葉の朝露に、うっかり足を取られた。
 
そして冬は――、冬が一番恐ろしい。
何しろわたしは、北海道に住んでいるのだ。
 
いくら全国的に暖冬とはいえ、北海道には雪が降る。
昼間解けた雪が夜には凍り、道路はアイスバーンと化す。
 
もちろん、道民として雪道の歩き方くらいは知っている。
小さい歩幅で、上から垂直に、地面を押さえつけるように、ぺたぺた歩くのだ。
小学校で習うかけ算の九九くらいに、自然に身についていることだ。
 
分かっていても、転ぶものは転ぶ。
北の大地は、破壊力抜群だ。
 
原因は、自分でもよく分かっている。足下をおろそかにしているからである。
 
どうやら周りの風景に気を取られすぎている。
今、自分がどこにいるのか、何をしているのかを見失っている。
その代償は、「転ぶ」という形で支払われる。当然といえば当然のことだ。
 
「アイタタタタタタタ……」
冒頭のセリフは、先日足を滑らせて転んだ時の第一声である。
この時、わたしは足首を捻挫してしまった。
しかもこれから東京へ旅立って、天浪院書店に行くというその時に、だ。
 
歩を進める一足一足に、鋭い痛みが響く。
池袋駅から東京天狼院書店までの、徒歩10分あまりの距離が恨めしかった。
痛い足を引きずりながら歩いた。キャリーケースも重かった。
これが金塊なら、どんなに足が痛くても我慢できただろう。細い歩道を歩きながら泣きたくなった。
当然のことながら、歩みはゆっくりしたものになった。何度も何度も立ち止まって休んだ。
 
どうして、今、ここで、こんな痛い思いをしなければならないのか。
 
これが「人生」だというなら、転んでばかりはいられない。
痛みに気が取られて、人生がさっぱり前へ進まないではないか。
 
転んでばかり、とはいうものの、
果たして「転ぶ」ことに対する備えは、できていただろうか。
 
冬用の靴底には、夏用とは異なる、明らかに滑りにくい素材が使われている。
いわゆる「寒冷地仕様」というやつだ。
はき慣れているその靴底は、すり減ってはいなかったか。
 
人生においても、厳しい時期に「前に進む」ための準備が必要である。
そして慣れた物事に対して、「寒冷地仕様」だから大丈夫だと油断した時、
危機意識をなくしてしまった時に、惨事は起こる。
 
原因は、自分でもよく分かっていると、先程言った。
しかし、本当に分かっていただろうか。
 
滑って転倒することが、自分では当たり前のように思われた。
実は、「滑る」ことイコール「転ぶ」こととは限らないのではないか。
滑ってしまったその時に、「転ばない」こともできたのではないか。
 
振り返ってみると、わたしが滑って「転ぶ」時は、両手に荷物を持っていた。
先日も、右手にショルダーバッグ、左手にキャリーケースを持って歩いた。
 
両手が塞がっていては、滑った身体を支えることはできない。
 
三年前に、駐車場の凍った路面で滑って転倒した。
後頭部を地面に強く打ちつけたその時も、両手に荷物を持っていた。
とっさに受身を取ることもできなかった。
 
(アイタタタタタタタ……)
そんな声さえ出せなかった。
しばらくその場にうずくまることしかできなかった。
 
痛みが引いてから、ようやくクルマに乗り込んだ。
そのまま運転して出勤しようとしたが、目の前にたくさんの星がチラついた。
マンガに出てくるような星型だった。まずいな、と冷静に思った。
 
人生の強制終了――。
そんな言葉が頭をよぎった。
 
運転席に背中を預けたまま、119番に電話をして、救急車を呼んだ。
脳しんとうを起こしていた。
数日は身体にも痛みがあったが、命に別状はなかった。
 
――三年前に救急車で運ばれた経験は、一体どこに活かされているというのか。
 
愕然とした。
強制終了はしなかったが、人生が停滞しているような気がした。
(アイタタタタタタタ……)
三年前の経験を活かせていない、自分自身の甘さがイタかった。
 
もしも、滑って転倒した時、両手に何も持っていなかったら。
片方だけでも、手が空いていたら。
滑った身体を支えることも、きっとできただろう。
 
それと同じように、人生においても両手が塞がっていなければ、
滑っても手が力強く大地をつかむように、自分を支えることができるだろう。
そして新しい何かをつかむこともできるだろう。
 
しかし、人生において多くの物を持ちすぎているとしたら。
何かに失敗したとしても、自分を支えるだけの余力が残されていないかもしれない。
今までにはない、他の新しい何ものも、つかむことはできないかもしれない。
 
冬のわたしにとって、「滑る」ことはもはや定番、デフォルトとも言える。
滑って転んでも、また起き上がればいいではないかと、強がることもできる。
しかし「滑る」からといって必ず「転ぶ」こともないのだ。
 
人生において「転ぶ」ことの備えとして、
「寒冷地仕様」の靴底のような危機意識を忘れずにいたい。
そして両手には、多くのものを持たずにいたい。
滑っても、転んでも、たくましく起き上がれるように。
 
いつでもどこでも、新たな何かをつかむことができるように。
 

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