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審神者として生きる決意

私を殺そうと襲って来た人形の悪霊を初めて食べた後は気分が優れなかった。

私には選択の余地がなく、やられる前にやるしかなかった。相手が何者で、どのようにして倒すべきか、自分が死ぬのかどうかもわからない状態だった。女性の姿をしたその霊が私に覆いかぶさると、視界が暗くなり、赤い光に包まれた。心臓が何か見えない力によって掴まれたような感覚がして、このままでは気絶するか、殺されると感じた。

私は決して負けないという意識を強く持ち、心臓が止まらないように祈った。そして、自分の爪でその霊を引っ掻くと、彼女の体は真っ二つに裂けて砂のように崩れ落ちた。その時、私が感じたのは彼女の恐怖と悲しみだった。私は彼女の細かく砕けた残骸を両手ですくい上げて食べた。少しでも彼女の死を意味有るものにしたかった。

せめて、自分自身の糧として命を無駄にしたくないと思った。

そうしなければ、まるで神様に殺されるような感覚に陥った。彼女が私を襲ったには何か理由があったのだろう。理由がなければ、彼女はただ私の敵として存在していたのかもしれない。ただ、私が強かっただけで彼女を害したのだ。それはとても傲慢で罪深いことのように感じた。

もし私に彼女と話をする能力があれば、もしかしたら彼女を天国のような世界に導けたかもしれない。お経のような術を知っていれば、彼女を助けられたかもしれないし、消し去らずに済んだかもしれない。そう考えると、自分は生きて彼女が悲しみながら消えていく結果が切なくて堪らなかった。

この女性が私の妄想や幻覚でなければ、この世には霊のような存在がいるのかもしれない。神様や天国のようなものが存在するかもしれない。神が私をどう評価するのかはわからない。

人殺しが罪だとされるのは人間の作ったルールであり、聖書や仏教の経典にも神が人間を殺す話は数多く存在する。野生動物や昆虫が生きるために互いに殺し合うのを見ると、神の前では殺人は罪にならないと感じていた。人を殺そうとする心にこそ罪があると感じていた。私は彼女を抹消した時、確かに死を与えようとしていた。その瞬間に感じた喜びは、神聖な存在から見れば悪魔的に映るのではないかと思った。

死刑を執行する国の役人や、人殺しを正当化する制度の中で生きる人々が、神の前で殺人を罪に問われることはないと感じていた。私の祖父が裁判官であったことや、私の血筋には維新志士がいることから、肌感で理解していた。自分が正しいと信じる殺しは正当化されるが、心の奥底で罪を感じる殺しは悪行だと思っていた。


どのような形であれ、殺人という行為自体が悪行だとされるならば、私の先祖が成仏できるわけがない。また、命を奪うことに罪の意識を持たない私のような存在が、この世界に誕生すること自体が不自然だ。死後の世界が存在するからこそ、霊的な存在がいる。そして、そうした存在がいるからこそ、命に深く思いを馳せる人類という種が誕生したのではないだろうか。

死後の世界があるからこそ、人々は殺しも殺されることも受け入れながら生きてきた。それは、一種の肉体を持つ存在同志の調和とも言えるかもしれない。彼女を抹消したその瞬間、私は快楽に近い高揚感を感じた。それは、自分自身がその行為を本能的に楽しんでいたこと、そしてそれが自分の心に、何者かにより意図を持って埋め込まれた性質であることを如実に示していた。

この高揚感は、もしかすると私たちがこの地球上で繰り返してきた生と死のサイクルの一部である。殺戮という行為が必ずしも悪ではないことを、自然界の多くの生物が示している。ライオンが獲物を捕食すること、また昆虫が生存のために他の昆虫を捕食することは、彼らの生態系において必要不可欠な役割を果たしている。

このように、人間の世界でも、命を奪うことが必ずしも罪ではない。それが戦争であれ、自衛であれ、時には正義の名の下で行われることもある。私達は、それぞれの行動に対して倫理的な裁きを下すことが求められるが、その基準は常に変わり続ける。そして、その変化する倫理の中で、私たち自身が何を価値あるものと見なすかが、神には問われるのだ。

だから私は、司法や国家が取り決めた社会とは出来る限り関わりたいとは思えなかった。人間が取り決めた善行が神の概念で善とは思えないし、人間の思う悪行が、神の世界で悪いと評価されるとは限らない。

産まれた場所の制度やルールに強制的に従わされるが、それは生きるために嫌々順応してるだけで有り、自ら率先して社会と関わりたいとは感じなかった。





私が今日まで生きてこれたのは、運が良かったからだ。家族が私の事を理解し、支えてくれた。私には社会に順応することなく生きていくための基盤が整って居た。そして、周囲の人が労働しない生き方を卑下しない、蔑むことのない価値観を持っていてくれたおかげだ。そんな社会に感謝しながら、私は自分の生まれた理由と、自分が行うべき何かを模索しながら長い時間を生きてきた。

そんなある日、神の声が聞こえた。「大災を祓え」という命令だった。今まで何も成し遂げてこなかった私には、何もできないと感じた。私は由緒ある名家に生まれたが、それだけで生きてきただけだった。

天の声を周りに伝えても、誰も信じず、馬鹿にされるだけだと感じた。しかし、奈良時代から続く神通力を宿すとされた棕櫚紋を継承する由緒ある家柄に生まれたことが、逆に人々の信用を得る手段になるのではないかとも思った。私の家系は男系は神道、女系は仏教という背景を持ち、両親や先祖はそれぞれが立派な経歴を持っていた。国家の中枢に関わる親戚も多い。だから私にはお金に困ることもなく、生きるために誰かと争う必要もなかった。

今更、自分が神の声を伝えて霊感商法まがいの金儲けをする必要はなかったし、出世の背景が、いかにも神様の声が聞こえそうな家柄で審神者と名乗るのに打って付けの条件が全て整って居た。この全ての条件が揃っている環境に産まれた事自体に意味を感じた。人の肉体は、全て現世で何かしらの使命を果たす為の借り物で、私の場合は神託を伝える事で大災を祓うことが役目なのだと感じた。

審神者を名乗ることは全世界の宗教から非難されるかもしれないし、お金を稼いだり裕福な暮らしをすれば、たちまち信用を失い疎まれるだろう。審神者として、人一倍規律を守り質素に堅実に生きていくことが求められる。

そんな窮屈な暮らしはしたく無いと感じながらも、このまま与えられた物だけを消費しながら、楽な人生を満喫して終えれるとは思って居なかった。今までの人生を振り返ると、十分に良い暮らしをしてきたし、美味しい料理やお酒も充分に楽しんできた。これから巨万の富を得たとしても、特に使い道も無く、新たな娯楽を得ることに嬉しいとは思えない自分がいた。今まで生きて来た社会が、何だかんだで天国のように感じられ、このままの暮らしが続いてほしいと思っていた。

しかし、自分の國が崩壊する未来が見えた時、自分が本当に必要としているのは、お金や地位ではなく、自分が大切に思う人達が悲しまずに済む暮らしだと気づいた。その為には全ての人々の心が幸せを感じながら、平和で暖かい価値観に満たされてる必要がある。そのため、私は審神者として、自分に課された使命を全うする道を歩む事を選んだ。

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