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人生にモヤモヤしてたら山に住んでた話

    2023年
    不便な暮らしを求めて
    山暮らしを始めてみました。

この記事で話すこと
山暮らしのリアル
生活の質をあえて下げてみるということ
人生のモヤモヤを消す魔法


人生モヤモヤしてますか?

僕はかなりモヤついてます。

主なモヤモヤの内容は
「①自分はここに居てもいいのかな?」というモヤモヤと「②もっと楽しく生きたい」というモヤモヤの2つ。

ただ、「自分はここに居てもいいのかな?」に関しては、昨年から始めた『狩猟』のおかげでだいぶ解消されてきたような気がします。

昨年書いた記事↓

なので、今年はもう1つのモヤモヤ『もっと楽しく生きたい』の方にフォーカスして1年の振り返りとともに山暮らしについて少し書いてみることにします。

不便な山暮らし始めてみた

前述の通り、僕は現在山暮らしをしています。

標高1,000m付近にある『建物付きの山林の土地』を購入し、8畳程の1Rの家で1人、山暮らしをしています。

以下、山暮らしの設備環境と暮らしぶりを少し紹介します。

水まわり

山の中の家なので水道管が近くまで来ておらず、上下水どちらも使えない生活です。

下水

排水はすべて浸透枡への地下浸透です。
なので、水以外は流せません。
洗剤を使用した食器洗いができないので、食器はすべて使い捨てのアルミ皿 or 紙皿です。
洗濯はコインランドリーです。
歯磨き粉はキッチンペーパーに吸わせています。
カップ焼きそばの湯切り水はオムツに吸わせて燃えるゴミにポイです。

上水

飲み水はペットボトルの水を箱買いしています。
手洗い用の水は、お隣さんの土地(森)から湧き水が出ているので、許可を得て使わせてもらっています。
ただ、水量があまり多く無い湧き水なので、もう少し寒くなったら凍っちゃうかもです。
一度、井戸掘りキットを使って井戸を掘ってみたりしたのですが、地中に石が多過ぎて奥まで掘れないのでいまは断念中です。

お風呂

ありません。毎日温泉に通う生活です。
お金も掛かりますし、プチ潔癖症なので、これが一番ストレスです。
脱衣所の床と、何か得体の知れないモノが浮遊した湯船がどうしても苦手です。
かけ湯だけでは、一番洗って欲しいところが全く洗えていないのです。
どうしても気が進まない時は庭でドラム缶風呂に入ります。
ドラム缶風呂は薪で温めるので、準備に3時間掛かります。

ドラム缶風呂

トイレ

汲み取りです。
いくらケアしていても、夏場はハエが室内に侵入してきます。
でも、ハエよりもカマドウマの方が100倍厄介です。
布団の中にいたり、カーテンに張り付いてたり、頭の上に飛び乗ってきたりします。
別名が『便所コオロギ』というのも嫌ですし、フォルムが普通に気持ち悪いです。

ガス

無しです。
壁に穴さえ開けられればプロパンガスなら契約できるかもですが、ガスが無くてもそんなに困っていないのでいまは無しです。
料理はカセットコンロです。
当然、給湯器もないので、この寒い時期は手洗いが修行です。

通信

携帯の電波が微弱です。
携帯キャリアを色々と変えてみたりしたのですが、大きな改善はありませんでした。
当然、光ケーブルも来ていないので、インターネットは衛生インターネットを使っています。
ただ、衛生インターネットは障害物に弱いので、周りの木々に電波が阻まれて通信状態はあまり良くありません。
オンライン会議もできないぐらい不安定なので、仕事の選択肢が狭まってしまっています。

駐車場

接道から家に入って来る道が急坂になってしまっているので、車は家に入って来られません。
試しに車で入ったらスタックしてしまい、レッカー車を呼んだこともあります。
なのでいまは、お隣の森の所有者さんに許可を得て停めさせてもらっています。

電気

電気はかろうじて通っています。
ちょうどウチの前に電線の終着点があるので、恐らく前の所有者さんが依頼して敷いてくれたのかな(?)と思います。感謝。

色々と不便はありますが、電気が来ているので『ベリーハードモード』とまではいかない感じ…ですかね。

地獄のような生活に思われるかもしれませんが、暮らしに工夫が必要になるので、その工夫を考えて上手くいったりすると案外楽しいです。

場所と特徴

8畳1R

家の詳しい場所はここに書き記すことはできませんが、麓(ふもと)にある市街地の入り口から「ぐ〜っ↑」と距離10km、標高は300mぐらい登った先の山の中に家があります。
(地元民ならこの説明でだいたいの場所分かっちゃうかもです)

市街地との気温差は4℃ぐらい。
(市街地が10℃だとウチは6℃)

前の所有者さんが夏に寝泊まりする目的で建てた建物らしく、冬のことは一切考えられていないお家なので、床はフローリング板が1枚っぺらです。
まだ12月ですが、もうすでに超さみぃです。

床板厚さ12mm、断熱材無しの低気密住宅

また、標高1,000mにもなると、酸素濃度も少し薄くなっていて、意識して大きめに呼吸をしてみると「ほんの少しだけ息苦しさ」を感じる気がします。(気のせいかもですが…)

たまに聞くウワサで「標高1,000mぐらいの気圧と酸素濃度が人間の身体には一番良いんだよー!」と力説している文字や声を見聞きしたりするのですが、僕は山暮らしを始めて早々に体調を崩して死にかけたりしたので、恐らく嘘なんだと思っています…。

標高が高いと『食欲減退効果』もあるそうなのですが、食べる量は変化なく、変わらず太ったままなのでやっぱり嘘なんだと僕は思っています…。

そもそも前住んでた家と300mぐらいしか標高変わらないんだから、そんなに大きな変化は身体に起きないか。

100万円ではじめた山暮らし

土地は約300坪で100万円でした。

知り合いのおじいちゃんからは「これで100万は高ぇなぁ。ぼったくられたな。こんな場所早く売っちまえ。」と散々な言われようです。

僕的には『修繕工事も無しでそのままギリ住めるレベルの建物付きの土地』で、100万円なら「お値段以上かなぁ」と思ったりで、なんやかんやでまあまあ気に入っています。

(物件を契約する前は値切る気満々だったのですが、前のご高齢の所有者さんが残置物の撤去とか掃除とかも自らやってくれていたので、敬意を込めて値切らず)

生活の質を"あえて"下げてみるということ

ここまでは前置きで、やっと本題です。

僕が山暮らしをはじめた理由はいくつかあるのですが、その一つに『生活の質を"あえて"下げてみたい』というのがありました。

『生活の質を下げてみたい』と思ったのは、たまたま観た何かの番組がきっかけでした。(うろ覚え)

たしか、『日本人が子供を産まなくなった原因ランキング』がクイズ形式になっていて、原因を当てるみたいな内容だったような気がします。
その番組で「今よりも生活の質を落としたくないから」という回答がランクインしてるのを見たことが、山暮らしを始めようと思った最初のきっかけなんだと思います。

内容の真偽はともかくとして、恐らく『子供がいる家庭はいない家庭に比べて出費が増えるから、経済的に不幸になることを避けて子供を産まなくなる』という理屈なんだと思います。

ただ、それを見た時に僕がふと思ったのは「生活の質を落とすことが果たして不幸なのか」という疑問です。

むしろ、僕のような人間にとっては、『生活の質を落とすこと』こそが楽しく生きるコツのような気さえいまはしています。

(注: ここからちょっとスピります…。)

楽しく生きるって何だろう?

注: 僕、個人の話をします。

もし誰かに「あなたは楽しく生きていますか?」と聞かれたら、僕は「いいえ」と答えていました。

原因ははっきりとは分かりません。

普段からあれこれ考えることが好きなので『どうして自分は楽しく生きられていないのか』を何度か考えてみた事があるのですが、なかなか「コレだッ!」という答えには辿り着けませんでした。

なので『どうしたら楽しく生きられるのか』の方で考えてみることにしました。
(『Why』ではなく『How』の方で考えてみることにしました)

そしたら、辿り着いた答えが『生活の質を"あえて"下げてみる』ということでした。

(もうちょっと詳しく説明します)

当たり前じゃなかったこと(非日常)が当たり前(日常)になる

自己分析をしてみると、どうやら僕は『当たり前じゃなかったこと(非日常)が当たり前(日常)になってしまう』と途端に楽しくなくなってしまうという至極厄介な性格のぽんこつのようです。

例えば、僕が過去に失敗してしまった海外移住(台湾)。

なんかカッコよくて、『海外に住む』っていうことが憧れみたいな感じで、なんとなくそういう当たり前じゃない環境に身を置いてみたことがあります。

そしたら数ヶ月後、"当たり前じゃない環境"にいつの間にか慣れて、台湾での生活が"日常"になってしまい、結果失敗して最終的には1年と持たずに帰国する形になってしまいました。

初めのうちは、海外旅行気分ですべてのモノや景色がキラキラして見えていたのですが、それが毎日続くとただの日常になってしまっていたのです。

(ただ、海外移住したことで逆に、日本での生活が当たり前ではなくなったので、以前よりも"より"日本が好きになれたのは結果良かった)

『華山1914文化創意産業園区』にて

この、非日常が日常になるとたちまち楽しくなくなってしまう性格というのはなかなか厄介で治せそうにありません。というか治し方がわかりません。

治し方が分からないので、治すのは一旦諦めました。
その代わり、無理に治そうとせず、思い切って"非日常"の範囲を拡大してみようと思い付きました。

その方法こそが『生活の質をあえて下げてみる』ということです。

生活の質が下がった環境に強制的に身を置くことで、非日常の範囲を拡大させることができるのだと僕は思います。

そして「それが楽しく生きるためのコツ」であると僕は考えました。

もう少し詳しく説明します ↓↓↓

過去の自分との比較で非日常を拡大させる

いま、僕の家には蛇口がありません。
水道がありません。
風呂がありません。
当然、お湯も出せません。

今の僕の生活は『蛇口が無い暮らし』が"日常"です。
なので、『蛇口がある暮らし』が"非日常"です。

『蛇口を捻(ひね)ると水が出る』という現代では当たり前のような環境が僕にとっては"非日常"です。

もし将来、僕の家に水道が通って、蛇口が付いて、蛇口を捻ると水が出るような環境になったら、感動する自信があります。

たぶんしばらくの間はその非日常のおかげで楽しく生きられると思います。
お湯なんか出たらもう最高です。

生活の質を下げたことで、前は当たり前だと思っていたことが当たり前ではないことに気付くことができるようになりました。
また、多くの人にとっては普通の出来事が、僕にとっては感動する出来事になりました。

なのでやっぱり『生活の質を"あえて"下げてみる』という環境変化は、僕みたいな人間にとっては、楽しく生きるための魔法なんだと思います。

これからの山暮らしへの恐怖

いま、お風呂小屋を少しずつですが自分でつくっています。

いくら不便な暮らしがしたいといっても、僕みたいに、衛生面に神経質な人間にとっては、お風呂はやっぱりあった方がいいです。
この暮らしを続けるためには、ある程度の不便さを諦めるという妥協は必要です。

ただ、DIYもほとんどしたことが無い人間なので、失敗したり失敗したりで進めています。

でも、DIYのスキル云々(うんぬん)よりも恐怖なのは
お風呂が完成したら「"家にお風呂が有る"という非日常が、日常にいつか変わってしまうのだろうか」という恐怖です。

もっと言うと、山暮らしという"非日常"がいつか"日常"になってしまう時が来てしまうのではないかという恐怖です。

人間は環境変化に適用できてしまう生き物なので、いつかは、この今の不便な暮らしにも慣れてしまう時が来てしまうのだと思います。
"慣れる"ということは、この不便な暮らしが日常になってしまうということです。

いま、それに震えています。

非日常を探し求めるゾンビ

でも、もしそうなったら、また別の非日常を探し歩くゾンビになればいいだけの話なのかもしれません。

非日常が1つ無くなったとしても、また別の非日常が見つかれば、僕は何度でも生き返ることができます。

手に入れた非日常が日常になってしまって「失敗したなぁ」と思ったとしても、また別の非日常を見つければ良いだけの話です。

正直、山暮らしの生活は不便です。

でも、不便なおかげで『便利な暮らしが当たり前ではない』と、頭と身体に刷り込むことが出来ています。

なので、この先何らかの災難が自分の身に降り掛かったとしても、大抵のことは楽しく乗り切れるような気がしています。

まとめ

なんだか、書いていて思いましたが、まだいくつか自分の中で矛盾があるようです。

台湾移住失敗は"慣れ"が原因で、不便な山暮らしもいつか"慣れ"が来てしまうはずなので、そしたらまたいまの暮らしも失敗になっちゃうのでわ?
とかとか…。

ただ、昨年もこのアドベントカレンダーに参加させていただいていたので、昨年(2022年)の自分の振り返りを見て改めて思う事は

昨年(2022年)はここに居ても良い理由を探していて
今年(2023年)はここに居ても良い理由を自分で作ろうと準備しました。

自分がいま、正解の道に進んでいるかは分かりませんが、こうして見ると少しずつ前には進んでいるような気になれます。

来年(2024年)は、ここに居ても良い理由を自分で作る作業を進めていこうと思います。

モヤモヤ解消のススメ

「自分はここに居てもいいのかな?」とか「もっと楽しく生きたいな」というモヤモヤを抱えた人がもし居るなら、狩猟とか山暮らしとかをしてみるのも良いかもしれません。
恐らく、自分がいままで如何に便利な世界に居たかが分かると思います。
(注: 山暮らしはあまりおすすめはしませんが)

いきなり山暮らしとは言わずとも、自分の日常が強制的に"非日常"に置き換わる環境に身を置いてみるというのもいいかもしれません。

不便さの認識を改めてみる

「生活の質が落ちたり、不便になったりすることは必ずしも悪いことではないのだよ。」
たとえそれが、自分が意図した変化ではなかったとしても。

と自分で自分に言ってあげたい。
不便な山暮らしを経験することで、そういう自分に自然となっていけるような気がします。

AIの時代と不便さ

世の中や暮らしがどんどん便利になっていくことはとってもいい事だと思うけど、その便利さが当たり前じゃないことをたまに思い出してみたり、"あえて"不便を体験できる場に行ってみたりするだけでも、ちょっぴり人生が楽しくなるような気が僕はしています。

便利で簡単に手に入るモノよりも、苦労して手に入れたモノの方が色んな感情が乗っかって、よりオリジナリティに溢れたものになるし、『データでは数値化しにくい付加価値』がたくさん加わるはず。

暮らしにほんのちょっとだけ不便さを取り入れてみる。
不便さは、これからの時代、もっともっと人間が大切にしていくべき大事な感覚なのだと僕は思います。


おわり。



◯ 参加させていただいたアドベントカレンダー


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