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黒いショートショート自選集

発狂メリークリスマス

地獄のフタが開き、無数のサンタクロースが現われた。皆が皆なにかおかしくて面白い。奇妙な動きをするサンタ。右腕を筋トレし続けるサンタ。「宗教も哲学も文学も私を救うことはなかった」と連呼するサンタ。遠い目を夜空に向けるサンタ。「死にたい生きたい死にたい生きたい」を連呼するサンタ。公園のベンチに座る僕に向かって執拗にウィンクし続けるサンタ。

しかし残念ながら、全てのサンタがミニチュアサイズだった。トナカイがいたら面白かったけれど、トナカイはどこにもいなかった。真っ赤なお鼻のトナカイさんはどこにもいなかった。

僕はサンタを踏み潰そうとしてみたけれど、かわいそうでやめた。右腕を筋トレし続けるサンタの右腕を折ってしまおうと思ったけれど、優しい僕はやめた。その代わり、全てのサンタに向かって奇声を発してみた。

「おらら!おらら!おらら!おらら!」

サンタ全員がビクッと身体を震わせて、すぐに硬直して、サンタ全員が横並びになって僕を見ていた。にもかかわらず、「宗教も哲学も文学も私を救うことはなかった」と連呼するサンタと、「死にたい生きたい死にたい生きたい」を連呼するサンタだけが、同じ言葉を連呼していた。僕はイライラしてきた。僕はイライラすると僕自身の内部にすくう唯一神をとめることができない。僕はそれを唯一神と呼んでいた。

暴れる唯一神、僕の内部から這い出ようと頑張っている唯一神、もう頑張っているという言葉に聞き飽きた僕は、頑張り過ぎて、こうなったのだから。目の前には、無様に縦に長い街の中心部を北と南に切り分ける公園の4丁目の、緑と赤のイルミネーションがパノラマ的に広がっていた。いくつも、いくつも、いくつも、いくつも、幾何学的な何か、感傷的な何か、抽象的な何か、もっと広げてアブストラクトでカオスな向こう側。

「うへへ」と僕は笑った。サンタ達は僕の様子を伺っている。上目遣いで伺っている。かわいいと思う。サンタってかわいいと思う。子供達の夢を壊してほしくないと思う。僕の世界のサンタであってもたとえ、僕だけの世界のサンタであっても。

そのとき、気付いた。遠い目を夜空に向けるサンタだけが、遠い目を夜空に向けていることに。僕は僕の中の唯一神と相談して、遠い目を夜空に向けるサンタだけは許せないと思った。だから公園のベンチに座る僕に向かって執拗にウィンクし続けるサンタに、遠い目を夜空に向けるサンタを殺せと命じた。

やだやだやだ、と、公園のベンチに座る僕に向かって執拗にウィンクし続けるサンタが抵抗する。やれよと僕は言う。僕は泣き笑いを浮かべてそう言っている。やれよやれよやれよ

やだやだやだ

やれよやれよやれよ

やだやだやだ

やれよやれよやれよ

僕はぶち切れた。僕がぶち切れると恐い。僕の中の唯一神は僕よりも恐い。それをサンタ達は知らない。僕は雄叫びを夜空に向かって発した。雄叫びは赤と緑のイルミネーションの光を浴びて、ただいたずらに波状にうねりながら、夜空の手前で夜空を完全に壊してしまった。だから遠い目を夜空に向けるサンタは夜空に向ける目を失ってしまった。

かわいそうだった。

と、そこで僕は、サンタ全員を踏み潰そうと思ったのだけれど、そんなかわいそうなことは僕には出来ない。僕は優しいから、善人だから、気が弱いから、何もできないから、誰も知らないから、誰も見つめないから、誰にも見つめられないから、誰の顔も知らないから、何一つ分からないからしらない、できない、しらない、できない、しらない、できない、しらない、できない、しらない、できない、しらない、できない、しらない、できない、しらない、できない、できる、できる、できる、しらない

そして僕は、本格的に発狂した。

赤いもの

雨が雪に変わることなく最初から雪のまま降るこの街で、僕は空想と妄想の区別が分からなくなった。生きて別れなければ死んで別れる人間関係の末に、どこか違う場所に脳味噌がワープするようになった。

とても幼気な、とても儚げな、とても静かなその場所は、優しい人だけが存在して、苦しい人は一人もいなかった。

それなのに、僕の側には鎌を持って黒いフードをかぶってニヤニヤ笑っている死神のような人間がいて、本当に死神なのかもしれない、死神なら死神らしく振る舞ってほしいと思った途端、

「いいえ、死神ではありません」とそいつは言ったから、「じゃあ誰ですか?」と僕が聞くと、「そんなことはどうでもいい」と急にキレた。

僕はキレる人が苦手だとても恐い、子供の頃に父親に殴られた記憶が蘇るから、甲高い声で執拗に殴るその男の記憶が蘇るから。

あぁやめてください、やめてください、と、僕は思った。声にしたのかもしれないけれど、同時にそう思った。

「やめません、やめません」と、死神のようなそいつが言った。「やめる必要なんてどこにもないのです」

「お願いしてるのに、やめないのですか?」と僕は聞いた。

「やめません。あなたの闇は深すぎるから」そう言って死神のようなそいつはフードを外した。

表れた顔は顔ではなかった。表面が赤く爛れ、瞳も鼻梁も唇もなかった。それは初めから無かったことが当然のように、つまり途中で瞳も鼻梁も唇も消失したわけではなく、生まれた最初から無かったように。

「恐いですか?」と死神のようなそいつが言った。僕は不思議と恐くなかった。人間の顔の方が恐かったから。人間は何を考えているか分からないし、人間はエゴイスティックに生きているし、人間は人を騙しながら存在しているし、人間はくだらない結末ばかり見すえているし、僕はそんな人間の方が嫌だった。

だから、

だから、

だから!

真っ赤な顔の、昔中学校の理科室で見た人体模型のような、ただ赤く、さらに人体模型の範疇を超えて瞳も鼻梁も唇もなく、のっぺりした赤い顔の、もはや顔とすら呼べない、不思議な存在のそいつに対して僕は言った。

「僕たちは誰なんでしょうか?」

「僕たちは、犠牲者です」とそいつは言った。

「どうして犠牲者なのでしょうか?」と僕は聞いた。

「そんなこと、言わなくても、分かっていますよね?」とそいつは言った。

あぁそうか、そうなのか、と、僕は理解した。たった独り理解した。この世界は、僕が住む街は、最初から雪が降ると思っていたけれど、決してそんなことはなかった。最初は雨だった。雨から雪に変わるのだった。雪が雪のまま降るなんて、そんなこと、ありえなかった。

僕は泣きそうになった。僕の記憶は全く別のものだった。僕の記憶は僕だけのものだと思っていたけれど、そんなことはなかった。僕はただの犠牲者の一人だった。虐待を受けた、一人の…

僕は涙が止まらなかった。死神のようなそいつが僕の肩に手を置くと、僕の肩は溶け始めた。死神のようなそいつが僕の足に手をかざすと、僕の足は溶け始めた。ジュージューと綺麗な音を残して溶け始めた。

不思議と痛みはなかった。

肉体的な痛みは精神的な痛みに紛れるようだった。

痛みなんてどうでもよかった。痛みを残せるほど僕は、生きたわけではなかった。ただ、逃れたかったのだ。幼い頃の家庭環境から。だから記憶を消したのだ。目の前の男を殺すため。父親という名の、見知らぬ男を殺すため。

だけど僕は…殺すことができなくて、逆に、とっくの昔に、殺されていたのだ。

僕はただの存在に過ぎなくて、物体として何も知らなくて、気体として元の世界を覗いていただけなのだ。必ず抜け出せると。必ずうまくいくと。将来素敵なことがたくさんあると。

だから他人の記憶を受け止めて、集合体としての人間の記憶を、成人男子の平均的な人生の思い出と、つらさと、切なさと、もろもろのドラマティックな展開を受け止めて、そのように、過ごしていた、そう、思っていた、だけなのだ。

ここがどこかも分からないし、昨日が何かも分からない。恋人なんていない。友達なんていない。

ここは雪が降る街だと信じていたけれど、本当は雨だって風だって悲しみだって、全てが幻想に過ぎなくて…。

僕は泣いた。大声で泣いた。それを見た死神のようなそいつが僕に向かって優しく微笑んだ。微笑みながら、一枚の手鏡を僕に向けた。

そこには、赤い何かが、はっきりと映っていた。

会議室の黒い夜

会社の会議室で一人、電気を消して窓側に立つ。都会の喧噪を真下に、目前にはビル街が薄い光を広げている。深夜まで働く人間たちの意欲と欲望と悲哀と執着を感じながら、俺は虚空を睨んでいる。

左の手首から血が滴り落ちる。精神的な痛みを肉体的なそれに転化するための儀式はもう過ぎた。誰もいない社内のトイレで鏡に向かって額を睨み、俺は一思いに手首を切った。鮮烈な痛みが鮮血に同化し、流れ落ちる血糊を感じながら廊下を渡って会議室に入った。

ビルの24階、誰もいない会議室には、俺の背後には、円卓テーブルの周りにオフィスチェアーが等間隔に並ぶ。その1つに座ったまま、先月、部下の一人が自殺した。彼は右の手首をナイフで切り裂いた後、頸動脈を寸断したらしい。跳び取った血液に塗れながら、まだ20代だった彼の死体は、残酷な現実に同化した。

その現実を作ったのは、俺以外にないようだった。仕事のミスを咎めたその日に死んだのだから。しかし決して、俺一人のせいだとは思わない。色々な何かが重なり、色を落とし、彼の人生に蓋をしたのだろう。しかし俺の叱責が、自殺の一因になっているのは間違いない。

誤解していた。俺は部下にとって親しみある上司だと。離職率が低いのは部長である俺の貢献によるのだと。経営幹部と部下の狭間に立ち、部下を、懸命に守っているつもりだった。彼らの期待と希望を真に受け、待遇改善を求め、経営幹部と交渉を続けたはずだった。しかし部下に死なれた今となっては…

こんなにも、俺は脆かったのだろうか。40代後半になり、離婚を経て精神的に厚みが出来たと思っていた。一人酒に蝕まれながら、何度も立ち上がったはずだった。会社を辞めた部下の一人は、最後に俺にこう言った。

「結局あなたは、組織に守られてるんですよ。自分で起業してみて下さいよ。仕事ができるかどうかは関係ない。自分の名前で仕事を取らないと何も始まらないんだ。あなたはそのことを、全く分かってない」

別な部下はこう言った。

「あなたは確かに素晴らしい上司です。だけど、給料が出てるんだから、部下は働いて当然だとあなたは思ってる。そんなバカなことあるかよ。あなたには感謝というものがない、部下に対して」

その一言一言が、今の俺には突き刺さる。結局、独りよがりだったのだろうか。部下にも上司にも、俺は慕われていなかったのだろうか。結局、自分のことだけを考える傲慢な人間だったのか?

自殺した部下は、最後に俺に、こう言った。満面の笑顔で。

「今まで、ありがとうございました!」

いつも暗い表情だったのに。残業申請が認められて、喜んでいた。他部署の人間にまで、積極的に話しかけていた。会社に残り、嬉しそうにしていた。そして手首と頸動脈を切って死んだのだ。

俺は頷く。そうか、おまえは死にたかったんだな。亡き部下に向けて言う。おまえはこの会社で死にたかったんだな。生きている証を残したかった。だから、だから…

「だから、俺のせいじゃ…ないんだろう?」

「いや、あんたのせいですよ」

と声がしたので振り向くと、自殺した部下が白目をむいて立ち、俺を真正面から睨み付けていた。

部下が左手を振り上げる。

斜めに振り下げる。

何が起こったか分からない。

しかし確実に、俺の頸動脈から、血が噴き出していた。暗い会議室で、どす黒い動脈が、放物線を描く。右手で塞いでも止まらない。指の隙間から、後から後から溢れ出す。

部下が笑う、白目をむいたまま。

俺は意識を失う、困惑したまま。

ごめんなさい

お元気に、されていますかわたしは元気です

重たい身体を畳んだり伸したりしながら、雪降る街で過ごしています

ここは、11月の終わりから雪が降って、ふらふらゆらゆらと、誰かの嫉妬も羨望もかなぐり捨てて、ただ、雪は雪として、地上めがけて降りて、くるのです

わたしは、あなたを、夢の中で見かけて以来、いつでもどこでも探していました

やっと、出会えたと知って、幸福でしたとても、とてもとても

幸福の手前と、幸福の向こう側と、幸福の真ん中と、幸福の両隣で、わたしと、あなたは、手をつないでいました

手は、右手と左手のようで、左手と右手ではないようでした手は

手は、手は手は手は、どこまでも、わたしたちの視線をまともに受けながら、信じながら、ためいきさえリアルに雪のなか、落ちて、しまうのでした、手も

いま、わたしは、頭皮をかきましたかゆいから、ちょうどつむじの辺り、何か、めにょめにょ、飛び回ってる、気がする

少し、理性を働かせれば、分かる、と思うんですよ本当に、少しだけ、でいいですよ少し、だけ、ほんと

わたしはあなた、の視線が嫌で、恐い目、でしたわたし、を見ていやでしたほんとうに

わたし の 妄想なんか じゃない と 思うから

あなたのマンション わたしの知らない 女 入ってきました

あなた と一緒 にあなた の笑顔 わたし 見せたことない ほど美しく そんな笑顔 を 美少年をそのまま青年にしてキチキチ固めてアスファルトで密着させたようなあなた の美しい顔 は わたし にとってただ それ 見てる 幸せ でした

あなたの美しい顔

あなたの美しい顔

溶かしたいほど美しい顔

男なのに女のような…

わたし のしらない女… とあなた一緒に あなた のマンション入ってく姿 見てわたし エレベーター 乗って あなた の部屋の階で下りて歩いてあなた の部屋の前 行って驚いたほんとに

だから 鳴らした わたし あなた の家のインターホン 鳴らし た

あなた 顔 ドア そっ と出し 包丁を持つわたしの(あなたにとってわたしの存在はしらなかったのだとそのときはじめてしりました。わたしはわたしにとってあなたはいつも見てる対象だったからお手の物だけど、あなたにとってわたしの存在はただひとり…)

「帰れよストーカー」

と、あなた 言ってしまったのですけど わたし の包丁に気付いた瞬間のあなた 美しい顔の筋肉の動き方おもしろかった。もったいない。これ以上はもったいない。ほんとに

ごめんなさい

ごめんなさい

ほんと 

にごめんなさい

ごめんなさい

わたし はあなたの顔 包丁 で縦と横 に切り裂いたけども あなた の大切な場所 傷つけて しまったけども 返り血 浴びたわたし あなた 見たけれども その前 にあなた 気絶してしまった

あなた の家の奥 わたし 知らない女出てきてわたし 見て みっともない悲鳴  あげて わたし 叫びながらマンションの玄関 入って逃げ惑う女 無様な女 醜し女 くだらない女 絶望的な女 刺して刺して刺して刺して 殺してしまった

ごめんなさい

女 動かなくなった 

女 血塗れ 死んでしまった

そしてわたしはすぐに逃げました。いまは北の大地の小屋の中。ここの近所にはわたしの実家があるんです。とても美しい白銀の世界です。あなたに見せたかったのに一緒にここで暮らしたかったのに悲しいです。もう泣かないって決めたのに。

ここにどうしてわたしがいるかあなたしらないでしょう。あなたしろうとしてもしらないでしょう。誰にもいわないでください。誰にも言ってしまったらまたわたしはあなたを傷付けなくちゃいけないから。そんなことしたくないしたくないしたくないからわたしは、いまも左手で包丁を握ってこの文章を書いています。

手首を切る勇気は、まだありません。

ストーカーの恋

僕の38年の人生で、初めて出来た恋人。何度もキャバクラに通って、やっと付き合えた可愛い恋人。彼女に何度もLINEしてるのに返事がない。最初は既読が付いたけど、もう付かない。何かあったのかな? 心配で心配でたまらない。だから僕は、毎日、店の前で待っていた。彼女の仕事が終わる深夜3時ころに。だけど彼女の姿は一度も見かけなかった。代わりに店の黒服らしき人間に「おまえそこで何してんだよ。迷惑なんだよ」と言われた。僕は笑いながら「恋人を待ってるんだよ」と言った。黒服はいなくなり、やがて警察官がやってきた。僕は言った。「来てくれてありがとうございます。恋人のことが心配で通報しました。彼女を探してください!」

逃亡犯

眠れない夜に酒を飲む。茶色いアルコールを胃袋に落として酩酊する。このままでは駄目になると思いながら、執拗に酒を飲む。冷たい時間が、伸びてゆく。

眠れない夜に飲む酒は、悲しい色香に満ちている。それに対して首を振りながら、妙に不安げな瞳で、暗闇の底で、僕を見つめる女性の影に怯えている。彼女は、もう、どこにもいない。

眠れない夜に飲む酒と、ひとり静かに対話する。一体ここはどこだろう。周囲を見渡すと、ビジネスホテルの一室だったり、見知らぬ公園のベンチだったり、繁華街のゴミ箱の脇だったり。茶色い酒を飲むことで、一時だけでも記憶を飛ばしつつ、一瞬たりとも気は抜けない。

眠れない夜に飲む酒が、「明日に気を付けよ」と警告する。そろそろ限界だろう? 変装も窮屈だろう? 世間から身を隠して公訴時効を夢見るのか? 改正されたことは知っているだろう? おまえの夢は夢のまま消える。二度と戻らぬ。そう言って酒が笑う。暗闇の向こう側で。

明朝、僕は知らない顔の人間達に囲まれる。ひっそりとした静寂に。烏も鳴かぬ曇天の下。路上の片隅。僕はアスファルトを枕に寝ていたらしい。傍らに3本の小瓶が転がっている。

「○○だな」と見知らぬ人間の一人が僕に言う。なぜ名前を知っているのだろう。僕は首を傾げる。皆が皆、青とネイビーの服を着ている。皆が皆、固い表情で僕を見ている。白と黒の車が、道の向こうに停まっている。一体、何が起こっているのか。

眠れない夜に彼女を殺した。ただ、それだけのことなのに。

夜桜は永遠に君を見ている

夜桜の前に白い衣服の女が立っている。彼女は公園の数少ない街灯の明かりに薄く染められ無表情に前を向いている。彼女の白い衣服は半分透き通り彼女の背後の幹は切ない。

僕は彼女のことを知っている…ような気がする。

深夜街灯が消える時間帯に僕は彼女と一緒にこの公園に来たことがある…ような気がする。本当にそんな気がしたから僕は、己を鼓舞して夜空との距離を詰めながら彼女に近付く。あなたの、顔は、美しい、んですよね知ってます、知ってますよ僕は、まだ。

だけど彼女は視線を前に向けたまま僕の存在に気付いていない。こんな風に世の中はすれ違いながら無数の人々が無数の檻に閉じこもったまま表に出れなくて、出れないままに時間だけがぎこちなく進んでいくんだと僕は思った。思った、ただ、それだけ。

夜桜の前に立つ彼女の側まで行って彼女の左手を掴もうとしたけれどズルリと彼女の手の皮は剥けてしまった。腐敗臭が鼻梁を刺激する。何もかも不条理なこの世界の片隅で。今度は彼女の右手を掴もうとしたけれど生温い感覚を残して彼女の手の皮膚は彼女を残して剥けてしまった。

彼女は何も見ない僕の必死な形相も、あの日だって今日と変わらない。

「ぼ、ぼくは、あ、あなた、す、すき」と、吃音で声を発した僕にあなたは、冷たい視線を投げかけフッ、と吐息で笑った。

吐息で笑った。

吐息で笑った。

吐息だけで笑った。

だから殺した。

だから殺した。

だから殺してしまった。

もう誰も。

もう誰も。

もう誰も殺したくなかったのに。

あなたは無表情に抵抗しながら僕は泣きながら、何かがどこかに挟まったまま、僕はあなたの首を両手で絞めて殺してしまった。

夜桜の前であなたを、無残な姿にさせてしまったごめんなさい。

もう動かないあなたを、そのまま土に埋めてしまったごめんなさい。

それが一年前の今日だった。見事に麗らかな桜が咲いた。来年も再来年も咲くだろうか来年も再来年もその先も咲くのだろうか。地中で腐敗する君の栄養を吸い上げながら。頭蓋骨と尾てい骨は到底違うと知りながら。

だけど君は、夜のたび、桜の前に、立つんだね。あなたを殺した僕の姿さえ見ないで欲望と執着から解脱したこの世界で、この僕のような見苦しい男がいる不束な世界で。

君は生まれて君は生きて君は死んだ。最後は抵抗しながら僕の下で死んだ。

僕は生まれて僕は生きて僕は死ぬ。自分で目玉を刳り抜き耳と鼻をそぎ落とし腹からこぼれる糞まみれの大腸を両手で握って僕は死ぬ。

君は、いつまでも甘くて苦い。

夜桜は、永遠に君を見ている。

それでも私たちは神を探している

戦場に切断された生首が転がっている。僕は先ほどから迷い込んでいる。たしか早朝に近所を散歩していたはずなのに。適度な広さの公園に入ったはずなのに。一気に霧がかかり、一気に場面が転換し、そこは赤い空と叫び声と呻き声にあふれる空間で、東と西に分かれて刀を振り回し、お互いの集団がお互いの集団を殺すために突進している。ガガガと音が鳴る。重たい甲冑に傷が入る。腕と足が損傷する。涙が涸れ果てる。赤い空から赤い雨が降り注ぐ…。

しかしなんでだべ、と僕は思っている。なんで生首って言うんだべ、あれ見て首に注目するなんておかしいな、どう考えても生あたまか生かおじゃねぇべか、そもそも首は切断されてるべさ、生首なんておかしいべさ。

僕はプププと笑う。赤い戦場の片隅で、東と西の集団が大量に殺し合う姿を目前にしながら、無様な僕はプププと笑う。昨日まで寝続けていたけれど、今日は永遠に起き続けているんだ。嬉しくてたまらないんだ。反動が反動を呼んで、躁から鬱へ、鬱から躁へ、どん詰まりの向こう側で、僕の死が煌びやかに広がっている。

「あーあーあーあーあー」

僕は現代に帰還した。公園の小山の下、鉄棒の横でラジカセを持ち、老紳士が気難しい顔で立っている。小雨も気にせず、目の焦点が合わず、何か、誰かに取り憑かれたような(狐だったら面白いべさ)、老紳士が背筋を伸して立っている。

老紳士の前には、4人の男と2人の女が立っている。いや、男か女か分からない。年齢も顔も分からない。皆が皆、静かに、新たな存在を待ち侘びるように。皆が皆、悲しくて、恋しくて、誰もが誰かを待ち侘びるように。もう、全て、死んでしまったのに全て。何も、誰も産まれないのに全て。殺されてしまったのにかわいそうに。やめないでください、やめないでください、やめないでくださいやめないでくださいやめないでください!

「のびのびと、せのびのうんどうから」

赤い空から赤い雨がしたたりおちる。

「りきまないていど、かるくてをにぎって」

そして我々の前に

「うでとあしのうんどうです」

新たな神が

「うではかるくよこにふり」

舞い降りた。

あー!あー!

黒い絵の具を大量に水に溶かして頭からかぶる。よく分からない気持ちのまま外に出る。適当に身体を揺らして道を歩く。すれ違う人間どもが振り返る。中には悲鳴をあげるやつも。男だろうが女だろうが関係ない。子供だろうが大人だろうが何も。俺はただただ歩く。

地下鉄の入口が見えてくる。黒い絵の具が乾き始める。まだ夏の気配が残っている。日輪が上昇する過程の出来事。電信柱の上で雀が鳴いている。どこ行ったカラスは。どこにもいないんだカラスは。俺は憤る。怒りのあまり叫び声がこぼれる。

危機回避能力を高めて地下鉄を回避する。黒い男が地下に降りれば駅員に詰問される。瞬く間に警察が現われるかもしれない。何が国家権力だ資本主義だ。俺はぶんぶん頭を横に振る。あー!あー!あー!あー!あー!あー!あー!あー!

叫んでいる。叫びたくもないのに。黒い絵の具で顔が潰れているというのに。目玉に染み込んで鼻梁を転がして、唇の上下と口中が漆黒に固まっているというのに。もうすぐ首筋が隆起して、ぶつぶつ吹き出物が現われて、鮮やかな動脈が歓喜するというのに。

あー!あー!あー!あー!あー!あー!

クソ野郎と小声で呟く。すれ違う人間がすれ違わず逃げる。その後ろを追い掛ける。あー!あー!遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。誰かが通報して誰かが怯えて誰かが不快に思ったから。その誰かも地球を汚している。オゾンの向こうに広がる純粋無垢で幼気なダークマターとマテリアルを黙殺している。

あー!あー!あー!

「教えてくださいよ」

と、

いつの間にか目の前に立つ制服姿の人間に問いかける。教えてくれ教えてくれ。威圧的な制服が冷たい視線を投げかける。なぜそんな目で見る? 確かに俺は顔も黒いし首筋も黒いし胴も背中も黒いし下半身も闇に落ちてるけど人は人をそんな目で見ちゃいけない。

三人の男が何か言う。聞こえない。三人の男が俺の右手をつかむ。やめろやめろ。

あー!あー!あー!あー!

「僕のこと、おかしいと思っているのですか?」、俺は三人に言う。「おかしいのは、あなたたちですよ。だって、自分がどこからきたのか、どこへいくのか分からないのに、普通に生きてるじゃないですか。結末は知ってるのに。死から逃れられないのに、何も分からないのに、まともにいれるわけ、ないでしょう?」

俺の身体は三人の内の一人に組み伏される。正気を保つには発狂するか酩酊するか。どこからきた? どこへいく? どこからきた? どこへいく? どこからきた?

あー!あー!

あー!あー!

あー!あー!

あー!あー!

あー!あー!

そしてカラスが鳴いた。カラスは俺を殺し、周りの男を殺し、取り巻きの男と女を殺し、我々はリアルな世界に移行して、そこは争いのない美しく汚れた世界で。

この。

おいで、おいでと、君が改めて手招きした。せっかく休んでいる土曜日に。何もない、下らない週末に。

僕は君を見て、普通に笑った。だって君は、あの日と同じように、欠けているから。そんなこと言ったらいけないと、誰かに指図されるかもしれないけれども、誰もいない2人だけの世界で、僕は、いつだって、君の欠けた身体と心を笑っていたから。

僕も、同じように、欠けていたから。欠けた物を追い掛けてみても、どうしたって時間は、平等に、すべからく、流れてしまうものだから。

ちょっと待ってよ、と、君は言った。

そんなこと言わないでよ、と、君は言った。

僕はこの世界の片隅で、何かと何かに挟まれているのだし、君は君だけのその世界で、誰かと誰かの間に、挟まれているのだし。

「それ以上、醜態さらすのやめなよ」と、君は言った。

君はもちろん、目玉も耳もないのだし、左手と右足も悲しいのだし。

僕は心の右半分と左半分を失っているのだし、誰が、何と言っても、死ぬことを待っているのだし。

「そんな下らないこと、もういいよ」と、君は言うのだけれど、「どれだけかっこつければいいんだよ」と、君は言うのだけれど。

残念ながら僕には、どこにも行き着かない文章を、書くしか、ないみたいだ。現実に向き合ってはいるのだけれど。普通に空を見上げて、くだらないと、吐き捨てて、みたのだけれど。

「おまえはそれじゃ、ダメなんだよ」と、君は言う。

「なんでダメなの?」と、僕は聞く。

「おまえはね、酩酊しながら死ぬしかないんだよ」と、君は言う。

「もう、嫌だよ」と、僕は言う。

「嫌でも仕方ない」と、君は言う。

「何もかも面倒くさい」と、僕は言う。

「それなら殺すよ」と、君は言う。

「それなら殺して」と、僕は言う。

そして僕は笑う。この9月の土曜日に。この、寂れてくたびれたこの。ふしだらで赤く染まってこの、何もないみじめで信じがたいこの、

この、土曜日、この。この。この。

この。


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