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【過去記事】20160622 同時代のリアリティ

別のブログに書いていたものを一箇所にまとめるプロジェクト。その9。あの舞台、劇中でグラスを割って、それをメイドが念入りに掃除機をかけて、そのあと主人公が裸足でゆっくり歩いてきたのを覚えている。
「演劇は決して工業製品にはならないでしょう。それは生きているなにか、毎晩、新たにされる危険です。」
これを書いてから約1年後、新たに出会ったデュラスの言葉。

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江古田の小さな劇場で、母とデュラスの「モデラート・カンタービレ」を観た帰り道だった。


「お母さん、なんで、あの子のことをチヅコに似てるって言うの?だってお母さん、チヅコのこと嫌いじゃん。あの子がかわいそう。」と、私の一つ上の姉に言われたことを明かしながら、チヅコのことを、嫌いなのではない、それは誤解だ、という話を静かに諭すようにされたのは。


私は、姉が母にそんなことを言っていることすら、その時初めて聴いた。母のめずらしくない物言いにそんな機微を感じていた姉の発言にも、私は私の感性の幼さを指摘されるような気持ちだった。
確かに私は母に、「チヅコに似ている」と、幼いころからよく言われていたように思う。でもそれは、私にとって、なんら特別なことではなかった。いやだとか嬉しいとか思うこともなく、へえ、という感じ。だからお母さんは、私は女優に向いているって言うの? くらい。その日わざわざ、本人の立つ舞台を観た後言われるまでは。


母の話はこうだ。チヅコは舞台女優である。当時有名な早稲田小劇場の看板女優としてその実力を発揮した。私は彼女と、高校時代の同級生で、仲が良かった。それは母校の七不思議のひとつ、と言われていた。地元の中でも有名な進学校で、母は絵に描いたような優等生であるのに対し、彼女は派手で、あふれる感性からひどく目立っていた。そんな二人が、親友のように仲睦まじくいるその光景が、不思議と周囲に捉えられたのだ、と。おまえが生まれ、おまえのその精神や、ふとした表情が、彼女に見えることがある。私はそれを褒め言葉だと思っている。そして、そんな瞬間をおまえの中にみると、私の中にあった、彼女に似た性質が、おまえに現れたのだと納得し喜びさえ感じるのだ、と。


姉の指摘した「嫌い」という表現がしっくりきた。

親友に求める要素は、時に嫉妬をも伴う尊敬と、苦しみへの共感、そして自分の成長を見せてくれる鏡のような存在、その3点がポイントなのだと、これは私の友人がテレビ番組から仕入れた情報。まあ、でも、そういうことなんだろうな、と思ってしまった。姉は、嫉妬、羨望の部分を「嫌い」と表現したに過ぎない。

母が言ったその日の芝居の感想、「今なおあの表現をしているようじゃなあ…」というものが頭に残るまま、母が私に謝るように在りし日の親友を語るその語り口は、薄く消えない記憶となった。

そして、母の言葉の真意と、真偽を確かめるすべのない過去に思いを馳せるものの、その日観た舞台の、主演女優である彼女の姿に、私は、母の語る昔話のリアリティを感じられないまま、ここまできた。いまなぜ、こんなことを急に思い出したかというと、先日、職場の上司から借りたDVDのせいだ。

上司に、勉強のためにこれを見なさい、貴重な資料だから、と手渡されたのは、鈴木忠志演出の舞台、「トロイアの女」で、82年の利賀フェスティバルで上演された時のDVDだった。ああ、きたか、と思った。
キャストクレジットを見て、母が言っていた彼女の名前を見つけた時、「早稲田小劇場の看板女優と言われていてね」という母の回想が、急に現実になった。


前衛演劇を学ぼうとするとき、鈴木忠志の名は避けて通れないし、後世に生きる者としての憧れはそりゃあある。寺山修司を一生懸命調べたり、黒テント赤テント、は、すでにその作品を同時代に生きるものとして観ることのできなかった人間にとって、「あの時代」となり、神話のようにも、幽霊のようにもつきまとい、一度は惑わされる。私もそうだった。だけど、それを過ぎたな、と少しずつ自分が思うようになっていた。誤解を恐れずに言うと、知らなくても、今は続いていくのだ、と。


明確な言葉にはできずとも、そう感じている時期、というのは、それを言語化するためのなにかに出会うようにできているらしい。強く印象に残る言葉というのは、結局そういうことなのだろう。鮎川信夫と吉本隆明の対談で、戦後の文学について語った本を最近読んだのだが、あとがきの解説を高橋源一郎が書いていて、その中のある部分が印象的だった。

大学の講義で学生たちに、この本の中に出てくる作家たちを次々に問いかけていったが、知っている学生はいなかった。その様があまりに楽しいので、どんどんどんどん挙げていくが、それでも反応は同じだった。現代において多読そして博学の彼らのその反応をみてこう思った、ああ、「戦後」が「ない」世代なのだ、と。そしてそれは、「戦後」を「知らない」ということとは別なのだ、と。

それを読んで、うん、そう、そういうことだ、と思った自分がいた。


「ゆとり世代」とか「平成生まれ」とか「ジェネレーションギャップ」とか、そういう言葉を耳にするたびに辟易していた。それは時代というものに鈍感な物言いへの嫌悪感でもあった。


私はDVDを観て、どうしても江古田の舞台で観た彼女と、母の思い出、あるいは歴史の中の彼女を一致させることができなかった。映像の中の彼女が、利賀村で上演されたその舞台が、演劇史に残る「資料」にしか思えなかった。画面の中の彼女は、歳も、今の私とそう変わらない。歳の変わらぬ私が、彼女に本当に似ているのか? それにさえも感情移入することのないまま、やはり記録は記録だった。

どんなに「あの時代」にあこがれても、私は、一緒に生きることができないのだ。


あの時聴いた、母の言葉、母とともに観たチヅコの舞台。それが、いやむしろそれだけが、あの時代から続く私の命にリアリティを与え、それだけが現実的なことなのだ。
私は、私の身体と命が及ぶ範囲で、生きることしかできないのだ。そしてそれさえも、後世には、「あの時代」になるのだろう。なんとなく、そういうものなのだろうなあ、と今は思っている。

この身に起きることにだけ、リアリティがある。しかし、リアリティを認識するためには、記号を知る必要もある。記号とは、言語であり歴史のことである。私は、苦しめられた物事を記号に変換して、自分を軸に、リアリティを認め始めている。それを人は、地に足が着く、といったのではあるまいか。最近は、地を這うように、自分や家族や、これから先のことを考え始めている。


そういえば、「モデラート・カンタービレ」の鑑賞で母に教えてもらったことではあるが、デュラスには『破壊しに、と彼女は言う』という戯曲がある。私はそれを実家の本棚に見つけた時、今はない昔をここにつなぐ媒介を見つけてしまったような気持ちがした。タイトルも意味深に思うのは、私が考えすぎなんだろうか。
お母さん、何を壊したかったのですか。そして何を、壊せなかったのですか。

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