【過去記事】20160605 おんなだから生きづらい?~「東京タラレバ娘」を起点にして
別のブログに書いていたものを一箇所にまとめるプロジェクト。その8。この記事を書いてから4年。私も30代に突入して、ますます感じるようになったなあ。もう傷ついてもしょうがないから、アンテナを30%くらいに絞って日常社会に擬態しているけれど、それで何もすり減っていないのかと問われれば、それは違う。それにしても、今改めて見てもこのCMはひどいな。
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表題の「東京タラレバ娘」は、結婚できないアラサ―女子が、おじさんよろしく大衆居酒屋で可愛くないお酒とおつまみで日々「女子会」しているその生き様を辛辣に描いていることで、最近話題の漫画だ。ばっさばっさ切り込んでいるものは現実であり、小気味いいが、若干なりとも傷付く自分がいた。なんでちくりときたんだろう? そんなことを抱えたまま、学生時代からの友人A、Bと三人でご飯を食べにいったとき、Bが、「このCM知ってる?」と教えてくれたCMがこれ。
全部見終わったあと私がその場で発した感想は、「結婚できないならせめて仕事しろっていうこと?」だった。
「マイナビウーマン」が、完全に女性向けの求人情報サイトだと思っていたら、婚活情報やコラムをはじめとする「働く女性の恋愛と幸せな人生のガイド」を標榜するサイトだった。え、そうなの?
おんなの生き方について、こういう商売が成り立つ時点で、現代社会の傷を見るような思いだった。おんなの生き方とは、と説教されている気分でもあった。
このCMで自明なのは、おんなという生き物の世間一般の価値判断基準である。年頃の娘は当然結婚するよね? 結婚したくないなんて嘘だよね?
でも、人の一生が単純なカテゴリーにあてはまらないように、おんなの一生だって、複雑で繊細なはず。
結婚したいおんな、結婚したくないおんな、したくてもできないおんな、子どもを産むおんな、産みたくないおんな、産みたくても産めないおんな。
おんなという生き物は人生の割と早い段階で、自分の努力ではどうしようもできない問題をつきつけられるものだと、私は思っている。
思い通りにならないこの体の苦悩が、一体だれに明かせるというのか。それは、同性でも、できない。どんなに仲のいい同性の友人にでも、話せない。私だけの問題になってしまう。私だけの問題を、他人に伝わるよう語ることは、痛みを伴う。
大学時代、当時籍をおいていたサークルの同い年の男子学生に、「女の子で、なんで四大に行きたいと思うのか分からない」と目の前で言われたことがある。その発言があまりに衝撃すぎて「うん、そうだよねえ」ととっさに応えた自分がいた。彼は教育学部の学生だった。
もっとリベラルな社会だと、信じていた。昔とは違うし、自分が大学に進むことも、社会に対して夢を語ることも、働くことの選択肢も、自由なのだと信じていた。
でも、なんだか性というものはそこからはみ出てしまうのかもしれないと、ぼんやり思った。それはすぐには整理できなかった。
最近、高校時代の先輩と数年ぶりに再会して、仕事の話をしている延長線で、発言することをためらいながら、「男のひとはいいな」と言った。それに静かに、同意してくれる彼女がいた。その反応をみて、一生懸命、仕事をしてきた人なのだと、瞬時に思った。
私は、独身のまま仕事を続けることも、結婚して、もし子どもができて産休・育休をとったあと復帰することを考えても、恐ろしかった。帰ってきたとしても、同じように働けないことは明確だったし、かといって独身キャリアウーマンに対する世間の風当たりの強さも感じたりした。実力を持って、真面目にことにあたっていればそんなことは関係ないと信じていた。でも違うということを、自分が勝手に、感じてしまった。
おんなだから、だからそうなんじゃない。人間全体の問題じゃないか、と一生懸命思った。でも、そう思いきれなった。私はおんなとして生まれて、どんなに周りの人から考え方が男っぽいと言われても、捨てきれない自分の感性におんなが根付いている、と思ってしまった。
男に生まれていれば、少しは楽だったんだろうか、悪魔のようによぎる発想。メロスを疑った自分を殴れといったセリヌンティウスの男同士の友情場面は引き合いに出すまでもない。ドロドロとした感情でさえもそんなふうにシンプルに他者と分かち合う場面に、おんなたちは遠い憧れを感じたりするだろう。なぜ、私・私達はそうなれないのか?
おんなって、自分の人生を削って誰かを愛する習性のある生き物なんじゃないか、と最近思う。とくに出産育児に対してそう思う。私は、母の人生を削って生まれてきたんだな、と大人になって、働くようになって、つくづくそう思う。
削っている「私」の報われなさが悲しくて虚しくて、自分でも望んでいない嫌な自分になってしまう。それはそうなるまいと意識していても、すぐ隣にある。だって、努力しなければならなかったから。
おんなだとかおとこだとか、ずいぶんここまでたくさん書きました。でも、一つのことに特化して述べることが、結局ただの暴力であるとも思っています。おんなだからつらい、おとこだからいい、わるいを、述べたかったのではありません。みんな特別なひとりの人間として、みんなが、想像できない他者の人生に対してわずかな配慮とのびのびとした感性をもって生きていければいいと、思っただけなのです。
だれかの人生に依存することなく、私を抱え自己肯定愛が自分を超えた部分で、他者に無償の愛を与えるようになりたい。ひとりぼっちでいたいわけじゃない。
おんなたち、おとこたち、わたしたち、弱く強い心で、誰かとともに生きていけ。
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