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【過去記事】20180710 苦くて、甘い。

別のブログに書いていたものを一箇所にまとめるプロジェクト。その21。
新型コロナウイルスを、ただの風邪、という人がいると、いや、でも、とこの時の光景が目に浮かぶのであった。

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「五分五分、以下です」

という担当医の言葉に、どっちが? と思った。
生きる可能性か、死ぬ可能性か。

長女の姉が突如京都の日本赤十字病院に入院して、それがどういうことなのか実感として乏しいまま、妹と京都に向かった。あれ、もう8年前のことか。
京都駅に迎えに来てくれた兄に状況を尋ねたら、「あんまりよくない」としか言わないから、変な緊張感を抱きつつも、タクシーの窓から見える私の日常ではない土地の流れる景色に、現実なのかどうかもぼやけて、やっぱりよくわからないまま病院に向かったのだった。

手を消毒し、本当は病室に入れる満年齢ではなかった妹の歳を少しサバ読んで、そのやりとりにことの深刻さがじわじわと足元から登ってくるような感覚で、生まれて初めて、やたら白いICUの病室に入った。気管切開した喉元につながる人工呼吸器を傍らに、それによってしか生かされていないんじゃないかと思えるように横たわる姉の姿を見て、そして姉以外にその部屋にいる患者のあまりの生気のなさに、「死んじゃうのかもしれない」と瞬間思ったのだった。涙でゆがんだ視界のまま隣にいる妹を見たら、彼女は鼻水をぬぐうことなく垂らしていたけど、それを指摘する気持ちなど微塵にも湧かなかった。

担当医の説明を聞く前に控えていた見舞い人用のスペースに、姉の仕事仲間と、離婚後は会うのも久しくなった父が来て、隣に座った兄がさらっと結婚報告なんかもしたりするから、離散した家族をつなぐのはもう、その中の誰かが死ぬとき、本当に本当に、必然にかられて感情に関係なく集まる必要のあるときなんじゃないかと思った。

一ヶ月にわたるICUへの入院ののち、なんの後遺症もなく生還した姉がいるからこそ今では笑い話になるが、彼女が体の不調に訪ねたのは曜日の都合によりたまたま設備の整っている日本赤十字病院で、そしてそんな病院に勤める担当医はかなりな(姉いわく生きている健康な人間に興味のない)医療オタクともいえる人だったらしい。で、そんな彼が言ったのだ。「五分五分、以下」、「ここまでくればヴィクトリー」と。

「五分五分、以下」? 「ヴィクトリー」? 

なにをもって、勝利、“ヴィクトリー”?

不慣れな医療の知識を前提とするその砕いた説明を、バラバラな家族と姉の仕事仲間それぞれに必要なこととしてメモする光景は、病院側のスタッフに奇異な光景として映ったに違いない。私自身もそう思ったのだから。

京都から戻り東京で学生生活を続けながら、週末には病院を訪れる別の姉からの電話に、もしかして、もしかして、と切羽詰まるように留守電の内容を聞くため大講義室を出た記憶もある。

姉が瀕死を経験したころ、私は就活をこれから始めるという時期で、もともとそういうものに向かない自分であることを知りながら改めて、最終的な価値判断基準は、「いつ死ぬかわからない」ということなんだと、生きるよすがない自分への、ひとつの指針にしたりなんかした。
明日死ぬかもわからない。姉と同じように、29歳とかで死ぬのかもしれないと、決断に迷うときには「死」を考えれば、あらゆることに自信の無い自分でも、ひとまず進むことができるのではないかと思ったのだ。

けれど私、そういうことを、本当は、その少し前にも、思ったことがあった。人間って、日常生活の延長に、すぐに「死」を忘れるようにできている。

多分これも学生時代だったと思うが、アンジェラ・アキの「手紙~拝啓 十五の君へ~」が、NHK全国音楽コンクール中学生の部の課題曲に選定されて、多感な時代の最中の彼・彼女らが涙を浮かべながら歌う映像を見て、自分の15歳の頃を思い出していた。

冬の夜、「これから自殺しに行く」と電話してきた級友を説得して我が家に呼び、翌朝迎えに来たその子の両親が、私と母の目の前でその子を殴りながら車に乗せた。
当時まだ15歳だった私に「お前のせいだ」とその子の母親が叫んだら、「私のせいなのか」と思うくらい、私は自分を守るすべを知らなかった。おそらくはその子も。
そんな弱い自分たちだから、「死」は、今よりももっともっと身近だった気がする。

大人になるってどういうことだろう、とその時から考え続けている。本当の大人になれれば、正当に抗うすべなくただ傷つけられることも、その延長で自分を含む誰かをさらに淵に追い込むようなこともなくなるんじゃないか。
自分と誰かの弱さに甘えて、さらに弱いひとを傷つける人間にはなりたくなかった。あるいは、自分の弱さを正直に告白して、対等に目の前の人と互いの弱さをすり合わせて、やっぱりこのままじゃだめだと努力したり、そして、永遠に終わらないその調整をしていける人間になりたいと思っていた。

自分の弱さで誰かを傷つけないだけの力が欲しい、はやく大人になりたい。そして、そのための具体的な方法はいくつかあると思った。金銭的な解決を選択肢の一つとして選べるようになること、そのためのお金を得ること。知識を培い人の話を聞いて、しかるべき具体的窓口を示すことができるようになること。私に言えないのならば、この人には言えるのではないかと思えるような誰かのための人脈を築くこと、その人脈を保つこと。すぐに話を聞く、駆け付けることのできる物理的距離の近い場所にいること。

そして今、そのどれもきちんと手に入れていない29歳の私。

15歳の時に願った大人の姿に届かない今のやるせなさ、自分の弱さに喰われそうになりながら、それでも明日死ぬつもりで納得できるものを選ぶという信念の狭間。

どちらに転ぶか分からない、「五分五分」の、苦さと甘さの境に生きている。

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