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ちっともかっこよくない

みなさま初めまして。
株式会社Allrightの代表の髙田舞と申します。グラフィックデザインを中心に、活版印刷、音楽レーベルの運営などをしています。

ご存知の方もいるかと思いますが、Allrightのアートディレクター髙田唯のお姉ちゃんでもあります。

2005年に私たちの父・髙田修地(たかだのぶくに。1935年生まれ。資生堂宣伝部を経てフリーランスで主にダイアグラム・エディトリアルのデザインを手がける。東京造形大学講師、武蔵野美術大学非常勤講師のち常葉学園大学 造形学部で退官まで教鞭を取る)が心不全で倒れたこと、これがAllrightの生まれるきっかけになりました。

父が倒れた当時、私は28歳でフリーランスでデザインを細々としており、
唯は24歳で水野学さん率いるグッドデザインカンパニーで2年目くらいの駆け出しのデザイナーでした。

こんなペーペーたちが大黒柱が倒れた髙田家の家計を支えなくてはならなくなった、それがAllrightが生まれた真実であります。

そう、お恥ずかしいことに髙田家には貯金がほとんどなく、家のローンも残っており、あろうことかありもしない祖母の遺産をめぐり争いまで起こる事態が重なり、600万の負債を抱えるというマイナスからのスタートだったのでした。

私たちにはデザインという武器しかなく、なんとか一命を取り止めた父が2006の春に退官するのを待ち、集合した、という…なんともあんまりパッとしない理由がAllrightの誕生秘話であります。

少し時代を遡ると、父がデザインを学び、そしてデザイナーとして世に出た時代は、まさに日本では一番デザインが華やかな時代であり、日宣美(日本宣伝美術会。1950年に設立。日宣美賞を取ったものは、今後の仕事が約束されるような存在であり、新人デザイナーの登竜門として大変な盛り上がりを見せた)が生まれ、東京オリンピックが開催され…とデザイナーが未来を描き力一杯その能力を発揮する場がたくさんあったように見えます。
活発にデザインの議論が交わされ、海外との交流、仕事を通して行われる試行錯誤、それを許容するクライアントとの関係や、そこに何とか参加をしようという学生たちの熱いまなざしなどを当時の作品や記録からひしひしと感じます。

そんな父をもつ私たちが、初めからデザインを志したかというと全く逆で、むしろデザイナーにはなりたくない!と2人とも心から思っていました。

デザインを天職だと思っている節があった父は、ほとんどの時間をデザインに費やしていたので、子供である私たちは不満が多かったからです。

家にいない、
話が難しい、
連れてかれる場所は美術館、、

もちろん良いこともあったけれど、一般的でないことは子供にはつらいもの。
そんなわけで、私は栄養士、唯は体育の教師を目指して受験をするも…

全て失敗。

紆余曲折あってなぜかそれぞれデザイン学校の門を叩くことに。
この話は長くなるのでまた別の機会に!

こうして父と同じ道を歩くことになったのだけど、まさか父が倒れて実家の家計を支えることになるとは夢にも思っていませんでした。

さて、Allrightが立ち上がったものの、私はフリーランスだったので集合はスムーズでしたが、問題は唯さんでした。

当時すでに飛ぶ鳥を落とす勢いだったgdcで、水野さんからの信頼が厚かった唯さんは、もちろん強く引き止められました。

私の記憶が確かならば、「俺がお前の家族を養うから」とまであの水野氏に言わしめた(こんなこと書いていいのかな、どうなんだろう、すみません水野さん〜)、そんな関係にまであったのですが、またいつ倒れるかわからない状態にあった父と少しでも一緒に仕事がしたいと早々に独立を決め、不義理をしてしまったことはしばらく唯さんを苦しめていました。

ずいぶん時間が経ってやっとお会いする機会があったときは、「初めましてお姉さん。ぼくはね、唯にフラれたんですよ」なんておっしゃってましたが(書いていいかな〜これも…水野さんすみません!)、やっと少しだけほっとできたのでした。

初回なので、まずはAllrightが生まれた話を赤裸々に書いてみました。

強い志も、野望も、展望も、そしてお金もなく、まさかの実家を支えるミッションによりスタートした我々。
迷惑をかけたり失敗だらけ。

うーん。ちっともかっこよくない。

#allrightgraphics #髙田唯 #水野学 #グラフィックデザイン #起業


わたしが、イイ…!!と思ったことに惜しみなく投資させていただきます◎