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母という厄介なもの

機会があってこちらの本を頂いて読むことができた。
事件は起こった時の報道で見聞きしていたしある程度想像することもできた。
この事件を有り得ない。という感想を持つ人は幸運だ。
私は、もう本当に「あるだろうな。」としか思わなかった。
今、いわゆる教育虐待はソフトなものから深刻なものまで浸透している様に感じる。
それにしても9浪とは諦めが悪い。茶化している訳では無いけれども、本当にかなり諦めの悪い母親だな。としか感想が出てこなかった。ノンフィクションとして出版されて話題になって興味が無いわけではなかったけど粘着するような読後だったら嫌だな。と手を出して読む気にならなかったが、読んでみるとそこまででもなく。案外サラッと読めた。
自身の例えをだして恐縮だが、私の母親も極端な考え方をする人だった。苦労してきたし、よく言う虐待の連鎖を恐れ、このような母親にならないように努めて生きてきた。道を違えば、自分だってこの事件のような子どもと母親のどちらかになっていたかもしれない。他人事ではないな、と言うのが正直な感想だった。
薄めたような体験を経験している人は大勢いる。それこそ子どもの側も母の側も、体験した。という人は多いのではないか。と思う。
自分の子どもと自分自身との境界が曖昧になってしまう人、そんな人は親子とは別人格という当たり前のことが分かってない。そのことに自覚を持って大なり小なり抗うことはかなりの精神的負荷がかかることだ。この事件の父のようにパートナーの力を借りられない孤独で未熟な母が、子どもの人格に自らの精神を侵食させることで己のバランスをとることは簡単で容易だ。娘と一体化することで己の果たせなかった欲望を満たす。本人自身その自覚がない。そんな自分と子どもの境界が分からない母親は濃淡あれ多く居るだろうと思っている。
母子はカプセルに入ってぬくぬくとふたりの世界に入り込みやすい。母親は影響を自覚していようといまいと子どもに甚大な力を持つ。子どもがその罠に気付く年頃には母の呪縛に囚われてしまっている。抜け出るのは容易でなく。精神の自律、身体的自立には他者の助けが必ずいる。
父が不在ならその代わりになる誰か他者の介在を必要とする。幸運にもそうした助力や自ら檻から抜け出す努力をし続けたものだけがその檻を抜け出すことが出来るのだ。
少し昔の話をすると。支配的な母親をもつ身として、娘を授かったとき自分を律せねば、とかなり慎重に育児をしていた。そんな私を母はよく揶揄した。
キャリアを持つ母親のはしりであった母は占いや健康食品そのほかハマっているものが多々あった(宗教だけはなかったのでまだ幸い)ある時、家族全員よく当たる占いを受けてこいとの厳命、無視すると余計にめんどくさいので夫婦と子どもふたりを占ってもらった。結果はマァ可もなく不可もなく。ただ小学生の娘が頭が良いので医者にするといい(笑)という話だった。頭がいい=医者というのが本当に短絡だと思うのだけれど、占い師は、かなり高齢の方だったので発想がその程度だったのだろう。
案の定、そこだけ妙に真に受けた母の私の娘に対する干渉が酷くなった。
否定しないように上手く距離をとること数年(それでも何年かかかってる!)諦めてもらうのがとても大変だった。9浪も大概だけど数年かかるのもどうなのか。
母は思い込むとその通りにならないと大騒ぎになる。声を荒らげる、不機嫌になる。全身で不満を現してくる。結局、厄介なので嵐が通り過ぎるのを大人しく待つしかない。
そうした人種は結構いるのだと思う。この事件の母親はまさにこの嵐が過ぎ去るまで待たないと無理なタイプだったのではないか。こういう人は周囲に人がいなくなる。パートナーはかなり都合の良い提案である給料のほとんどをふたりに渡した上に別居を選んでいる。かと言って離婚もしていないのだからかなり大人しい性格なのではないか。嵐が過ぎ去るのを待つ。余計なことは一切言わない。関係を断つことが唯一できること。例え娘を気にしていたとしても、もし口を挟むならその何倍もの言葉が返ってきたことだろう。
逃げ出すしかなかった。
その結果、残された娘がその嵐を一人で受け止めて密室の中で相手を殺すか自分が死ぬか、の二択になってしまったというのは容易に想像が可能だ。
気の毒としか言いようがない。チャンスがあって、逃げ出せるとしたならどこであったろうと考えてみた。
やはりどこかで父親に連絡を本気でとってみることだったと思う。本人が母親の影響から父親をバカにしていたと言うことだけれども、もう少し考えてみることが出来たなら父親を利用するという手も選択肢にあがったのではないだろうか。

逮捕されても嘘を突き通せる。と信じていようだ。自分はずっと母に嘘をついてきたから必ず出来ると。
結果は、一審は否認と随分粘ったようだけれども結局は自白した。やはり嘘は突き通せない。
皮肉にも捕まって他者と出会い、父との出会い直しが彼女を変えて行った。
常識で考えて小手先の偽装や嘘が通用するはずがないこと。そんな考えも第三者の介入が少ない母親視点だけの生育環境では考えられなくなるのだ。本来他者との邂逅を促すのは保護者の役割だ。教育とはたくさんの人々で行うものだ。
子どもたちにはたくさんの視点を提示すること。その大切さを改めて思い知る。

気の毒なことだったけれど、この事件が提示した深刻な母子の現状が少しでも詳らかになって周知されること。
今現在、子育てに向き合っている親や保護者たちが、この親子の陥穽に陥らず、豊かに子育てできるような環境になることを願ってやまない。

#母という呪縛娘という牢獄
#斎藤彩
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