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「楽しいこと」だから続く

走り始めたのは50になってからだったので、4年になろうか。
ランニングなんて一生縁がないものと思っていた。
中学の頃、走らされるのが嫌で嫌で。だって苦しいし、辛いし何が楽しいんだ。
それでも楽しい人が世の中にはいるらしい。漫画やドラマ、映画の中でランニングに夢中になる時の描写に触れて、ランニングハイなるものがあることを知った。そんなこともあるのか、ぐらいにしかその頃は考えず、そんなことには一生縁がないだろう。相変わらず自分とは全く関係ないことだった。

参加しているオンラインサロンの活動で、noteを書いている。このnoteがそうなのだけれど、新規に書き始めたメンバーのnoteを読んで「楽しいことしかしたくない」という一文に惹き付けられた。
そのnoteは滅茶苦茶かっこいいnoteで、作者ご本人にお会いしたことはないけれどTwitterやzoom、ランニングアプリ、ストラバ越しにその格好良さはひしひしと伝わっていて、正しくその人となりの現れた素敵なnoteだった。
このnoteは、仲間のTwitter「若いうちは成果主義のところで鍛えられた方がいい」というつぶやきに、RTそう思う。に応えるアンサーのような形になっていた。同じTwitterをみて「自分はぬるいところで文句ばっかり言ってるくせに、成果なんて出してないな」と悄然としていたところだった。 

「楽しいことしかしたくない」。
そのnoteがそう結ばれていた。
最近、本当に同じことを思った。ちょっとお手伝いしたお仕事が、今どき信じられない過酷な環境だった。
「この年になって、この環境はもう無理だ。楽しいことしかしたくない」
もう少しお手伝いする予定だったのだけれど「無理です」と伝えた。
若かったら人の顔を立てて無理をしていたかもしれない。
でも、もう若くない私には時間がない。
「楽しいことしかしたくない」。

ランニングは時を経て「楽しいこと」に変わっていた。はじめはウォーキングから。走り始めると案外走れる。少しづつ距離を伸ばした。
走ると心臓も呼吸も苦しくなるけれど、しばらく続けてくるとそれが気にならなくなってくる。ある一定のリズムに刻まれると、それが心地よくなり、そのリズムに身を任せて走れる。ランニングハイとまでは言わないがそのしっぽぐらいは掴めたかもしれない。
その心地よい時間を過ぎるとまた苦しくなってくる。多分、その山を越えるとまた心地よくなってくるのだろう。
まだ長くて10㌔位のものだけれど走れるようになったことは自信に繋がった。
自分の身体で季節を感じられる心地良さ。夏の暑いとき、汗だくになりながら何故か満足だった。花や紅葉にワクワクしたり。この冬には、ちょっとだけ走ろうと外に出たら楽しくなって遠出になり天気の急変で、吹雪にあい、雪だるまになってほうほうの体で家にたどり着いたりした。子どもには何故そこまで、と笑われた。
調子に乗って去年は膝を壊してしまったけれどそれでも走りたい欲が勝るとは昔からは考えられない。不思議な感覚だ。
痛む身体の様子をみながら、走り続ける。
多分、これからもずっと。

振り返ってみれば、仕事の成果はわからないが、助け合ったり笑いあったり、楽しいことの方が多かった。
それはそれでいいのかもしれない。
「楽しかった」から続けている。仕事もランニングも、ただそれだけなのだから。

#PLANETSCLUB  #ランニング


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