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ルードヴィヒ!みた

知っているようでよく知らない偉大な作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
耳が聞こえなくなっても曲を作った。
英雄を作曲したのに皇帝になったナポレオンに怒って楽譜を破った。
なんていう真偽不明の逸話ぐらいしか印象にない。
このベートーヴェンの戯曲は韓国でヒットし日本版を中村倫也さん主演で河原雅彦さんが演出を担当し公演されました。
今回、チケットを友達が取ってくれたので観ることが出来ました。なるべく情報を入れないように観ると決めていました。

⚠️ネタバレ
はじめから緞帳が降りておらず舞台セットがあらわになっています。幕が上がることなく自然に舞台は始まりました。ピアノと楽器の演奏が生演奏とは知らなかったので驚きました。全編のピアノを担当するピアニストが俳優も兼ねています。

あらすじ
ある修道女を訪ねてピアニストがやってくる。彼は生前のルードヴィヒから手紙を預かり彼女に渡すために来た。手紙に綴られた2人の交流は彼が聴力を失った頃から始まる。

序盤から舞台狭しと激情に駆られる若きルードヴィッヒは私が予想していたより早く聴力を失います。
聴力を失うことが主題になるのかな、と思っていましたから意外でした。耳鳴りのシーンは演出も音響も再現度が高く普段から耳鳴りの不快さに悩まされている私には、今耳鳴りが起こっているかのように感じられました。その効果もあり聴力を失う絶望と狂乱が胸に迫ります。
何度も命を絶つ選択をしようとしていたにも関わらず、その絶望を乗り越えルードヴィヒは自身の中に流れる音楽を再生する道を選び自ら命を絶つことをしませんでした。
それはマリーという女性がイレギュラーな存在としてルードヴィヒと関わったことに起因します。彼女の登場によりルードヴィヒは道を外さずに済みました。彼女の視点で物語が進むのかとも思われたのですがそれだけではないようです。
マリーは建築家志望の女性です。ルードヴィヒが語りますがこの時代、女性が選択するには困難な道です。「無理だ」とルードヴィヒも言いますがマリーは諦めませんでした。次の再会でマリーは男装しています。マリーは男社会で生きる上で戦うための鎧だと言います。このエピソードで思い出したのは男装の数学者ソフィー・ジェルマンです。かのフェルマーの最終定理研究において多大なる貢献をした女性です。男性の名前ではなく本名で論文を提出し通過しなかったことも似ています。モデルにされたのかどうか韓国版の詳細が分からないのでなんとも言えませんが、大事なのはマリーの言う「準備が出来ていないのは男性」です。とても現代的なテーマでハッとするセリフになっています。たくさんの抑圧されし女性たちの象徴のようなマリーの歩み。しかしこれも中心になるテーマではなさそうです。
この時ルードヴィヒが悩まされていたのは甥のカールです。自身の音楽を越えるものをカールに託そうとしていました。カールは偉大な伯父と比べ自分の才能の無さに気がついています。それが原因かはわかりませんが非行もあり音楽からの逃避を望んでいます。ルードヴィヒは自身も悩まされた虐待とも言える情熱でカールに音楽を強制します。近代的な目を持つマリーは観客と同じ視点を担います。強制されど音楽を愛していたルードヴィヒと本質的に音楽を志向している訳では無いカールとは絶望的にすれ違っています。
カールの絶望が頂点に達するのとルードヴィヒの最高傑作のひとつと言える交響曲第九番『歓喜』が交錯し、同時に絶頂を迎える瞬間に舞う深紅の薔薇。皮肉な最高潮を迎え舞台は終焉に向かっていきました。
最後に、序盤で修道院に現れた青年が何者なのか観客には彼の奏でるピアノでわかる仕掛けです。
彼はシューベルト。奏でる曲は新しい音楽の扉をひらくもの。カールに強制せずともルードヴィヒが撒いた音楽の種は勝手に咲き花開いたのです。

描かれてはいませんがマリーの勇気は彼女に続く後の女性たちを勇気づけたことでしょう。
なるほどこの物語はままならぬ状況でもがくもの達を描き、生み出したものへの賛歌なのだと気が付きました。
ままならぬものに対峙する者たちが試行錯誤の果てに生み出したものは波及し影響を与え新しく花開く。舞台は観客に余韻を持たせる音楽で幕が降りました(比喩的に)。
抑圧されしものが苦悩の果てに表したものが連綿と続いていく。それが表現者たちの歩む道なのかも知れません。
数々の人類の遺産とも言える名曲をこの世に遺したルードヴィヒを描き巧みに近代的テーマも織り交ぜた戯曲でした。韓国版では若きルードヴィヒと老いたルードヴィヒで配役が分かれているそうですが日本版では少々複雑に2人の役者が入れ替わり時に同時に存在し演じています。マリー役、カールと老ルードヴィヒを演じたおふたりは素晴らしく特にもう1人のルードヴィヒ役は若者と老人を演じ分けるのはかなり大変でありましょう。歌も素晴らしく巧者であることはよく分かり、ある意味主役より力量が求められる複雑な構成なのかもと思いました。特に前半、ルードヴィヒは少し過剰とも言え、エキセントリックさはトゥーマッチかもしれないと感じてみていました。すぐ世界観に浸る間がなかったせいですが、しかし、全編通しで観てそれが計算であろうこともよく分かりました。
そこまでの激情は最後で老ルードヴィヒが静寂の中で歌い出すクライマックスのシーンの抑えた静かな情熱に収斂するためだったのかもしれない。それまでのエキセントリックさは、ここの効果を考えてのこと。それだけ最後の静寂で歌い出す瞬間は心をうちました。
共感できない部分もあるキャラクターであるルードヴィヒをありったけの情熱をもって演じ、舞台で生きた。これは老ルードヴィヒと役者を分けては面白くない。演出家として俳優中村倫也にかけて彼に思う存分暴れてもらった方が効果的に熱情の舞台が出来上がるとの計算があったからこそだったんですね。
なるほど、普通では生み出されないもうひとつ飛び抜けた演出と舞台に、鑑賞後思い出されるのはすべてを共感することは出来ないけれど激しいルードヴィヒでした。
この激情のルードヴィヒが作り出す舞台は次に種を撒くのかもしれませんね。

#ルードヴィヒ
#中村倫也

参考
フェルマーの最終定理






ちょっと寂しいみんなに😢