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悪気がないという陥穽

普段から思ったことを口にするタイプの子は身の回りに1人はいる。
他人事のように言っているけれども若いころは無知で自分自身そのきらいがあったかもしれない。何やらキャラが立つような気がしていた。
いつもなら「今それを言っても仕方ないだろう」という発言をいくらでもスルー出来るところを今回は言わなくてはと意識する間もなく窘めていた。自分が発する言葉に少し驚いたくらいだ。
それは世間話から始まった。幼い子ども達がシッターや教師たちから性被害を受けているニュースの話題になった。母親だけの空間だからそれなりに対策について意見があるだろうと話をふったのは私だし今の現場を聞きたかったのもあった。それに対してひとりのリアクションが看過できないものだった。
性被害にあうことに対して「そんなことになったら私なら死ぬわ」だったのだ。要するに死んでしまいたいそれくらい耐えられないことだ、と言いたいのだ。そんな当たり前のことの先を深く考えないし想像したことも無いのだ。そんな目にあっても人はなかなか死ねないし生きていかねばならない、そしてそれを乗り越えた人も乗り越えられず辛い日々の人が必ずいることをその人がその言葉を聞いてどう思うかも。
全く自分の外側にある、他人事なのだ。
今その主張を言う意味が全くわからない。
子どもについての話題なのに自分の話題になってしまうのも子どもが被害にあうことなど想像の範疇外なのだと見当がついた。
「そういう考え方もすぐ思ったことを言ってしまうのもよくないよ。そういう目にあった人が『私なら死ぬ』をどう思うだろう?死なないで生きてるのはダメって言う意味に取られるかもしれない。死ねって言ってるのと同じ。それにもし私がそういう目にあっていた人だったらどうする?そういう目にあっている人は胸の内を言わないし言いたくもない。ただ黙っているのかもしれない。そういう事も考えて話をしなければダメだよ」
静かに怒りを含んでいることは察しただろうし「悪気がなかった」としても考えが足りなかったのは明らかでそこまで理解がない子では無い。単なるソーシャルな会話のつもりだったことにマジレスされて面食らってはいたけれど悪いと思ったからフォローした「だからそんな目にあう人を減らすためにも教育することが必要だよ」にちょっとほっとして会話にのってきた。悪かったとは思っているしこちらの意図もわかっている。
しかし悪気がないことは免罪符では無い。
人間関係が円滑に行くための方便でしかない。
もう誰も真剣に言ってくれることは無いだろうから嫌な思いをしたかもしれないがこれも教育としてもらうしかない。自分だってロクな若いころではなかったけれどたくさん気づきがあって今がある。幸運にも知見にふれる機会があり獲得したことだ。
恥ずかしいことだが若い頃は迂闊でありたくさんの人たちを無意識に傷つけて来たことだろうと想像する。今分かっていることは免罪符にはなり得ない、これから気をつけることと更に知ることは私にとっても大事な課題だ。幸いなことにその後に彼女と深く話をする機会を持てた。自分の発言を慎重にして行かねばと思えたし嫌な思いどころかありがたいことだと言ってくれた。子ども達を被害から守ることが私たちの課題だねと確認し合えた。よかったと思うし気づいてくれた事に感謝したい。
気づきがないまま悪気がないでスポイルされてきたヒトはそこから成長出来ない。
大きな落とし穴に落ちてそこから這い上がるのは単につまづいて転ぶよりも困難だ。
恥ずかしい思いをした、人を傷つけた、そうした後悔が人を慎重にし成長させる。
キャラがいいから。悪気がないから。
思考停止でしかない。
以前は「許されるキャラだし悪気があった訳では無いもんね」で私も済ませてきた。
その場はとりあえず丸く収まるから。
もう丸く収めて看過していい時代でもない、いやいつだってだめだったのだ。
この点で丸くなることをやめよう。
こういう視点がある、という提示だ。
「私なら死ぬ」は加害者を追い詰める言葉でなく被害者を追い詰める言説なのだと、躊躇いなく社会的な場面で言えてしまうことこそ今問われているのだよ、と言葉にしなければ分からない人もいるのだから。
悪気がない人を責め立てているようにみえてしまっても言わなければならない。個人的な場面でも指摘することが堅固な常識のようなものを突破する一歩なのだと信じているからだ。
発言した本人にと言うよりも今まで看過してきた大人の振る舞いという常識に及ばずながらも一矢報いるために。個人的なこうしたやりとりから始めていかなければならないところまでもう来ている。

#PLANETSCLUB #教育 #性被害 #性教育 #子ども未来部






ちょっと寂しいみんなに😢