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縁は異なもの、推しは増えるもの

先日、こんな文章を書いた。

「窮鼠はチーズの夢を見る」という映画を観て、成田凌という役者に焦がれて嫉妬した話である。メンヘラにもメンヘラ製造機にもなれちゃう成田凌すごくない? 軽率に好きになるよ? というのはさておき、これを読んだ夫がこんなことを言い出した。

「田中圭から成田凌に乗り換えるの?」

要するに、推し変するのかという問いである。何を隠そう私はここ2年ほど田中圭を推していて、テレビにつないだHDDの容量は常に彼の出演作で逼迫しているし雑誌もじわりじわりと積まれていく。それは夫も当然のごとく知っている。

え? 違うよ?

その発想はなかったと思わず固まってしまったが、私としては応援したい俳優が増えただけだ。恋愛のスタンスの違いを「男は名前をつけて保存、女は上書き保存」と例えられるが、推しというものもそれなのかもしれない。たぶん誰も興味ないと思うけれど、私の場合だと恋愛は上書き保存派、推しは名前をつけて保存派。だから映画やドラマで魅力的な俳優に出会うたびにフォルダが増えてゆく。私にとって推しは乗り換えるものではなく増えるものだ。

恋愛が推し活と異なるのは、その対象を1人だけ選ぶことがスタンダードであるということだ(もちろん価値観はその限りではない)。推しに対する気持ちは盲目的になりやすいという意味で恋に近いものもあるかもしれないが、その形は自由だ(なおガチ恋・リアコの場合はその限りではない)。

当然ながら時間やお金のリソースは有限なので、推しが増えればそのあたりを見直す必要はある。それでも「推しは1人でなければならない」という法律でもできない限り、無理に誰かの推しをやめる必要はないだろう。

誰か1人に頭のてっぺんからつま先までズブズブに浸かるもよし。この人素敵だな、と思って気になるところをつまみ食いで応援するもよし。推しへの愛はその量も形もフリーフォーマット。この世界に無限に存在する沼の中から純粋に応援したいとか、好きだと思えるものに出会えたのだからそれは運命だ。

推しは推せるときに推したいだけ推せ。

みなさま今日も推しとともによき1日を。

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