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短編小説|東京幻想 〜ハルコの場合〜

 小塚ハルコは愛されたかった。
 19になったばかりのハルコにはまだ愛するということがいったいどういうものか分からなかったが、とにかく自分を丸ごと包み込んでくれるような、そんなふうに愛してくれる人に愛されたかった。
 それなのにどうして、知らない男の人が隣で眠っているのだろうか。カーテンの隙間から覗く夏の日差しに目を眇めながら、ハルコは心底不思議に思った。

 千葉のベッドタウンの片隅で育ったハルコは当然のように東京の大学を選んだ。一刻も早くこの中途半端でダサくてチェーン店しかない街を出て行きたかった。
 結局一人暮らしはできなかったけれど、大学の周りには遊ぶところがたくさんあってまあまあ満足だった。単位取得が楽だという通称・楽単の授業を多めに取り、とりあえず友達を作るためにゆるそうな天文サークルに入った。アルバイトは時給がよかった塾講師。思い描いていたキャンパスライフをそれなりには実現できそうなことにハルコは安堵した。

 まもなくハルコは恋をした。同じ大学で2つ年上の、アルバイト先の先輩だった。シフトがよく被るから週3回くらいは会う。背が高くてかっこいい。私服はだいたい古着。音楽と映画に詳しい。大学まで歩いて15分くらいの雑司が谷のアパートに住んでいて、いつも煙草の匂いがした。
 ハルコは先輩とお近付きになりたくてシフトで顔を合わせるたびに話しかけた。その甲斐あって夏の初めにはときどきバイト終わりにファミレスで2人でご飯を食べる関係になった。
 正直なところ、共通の話題は特にない。でも先輩のことなら何でも知りたかったから、いつも同じ味のするハンバーグを食べながら先輩の趣味を聞き出した。クリープハイプ、羊文学、マカロニえんぴつまでは覚えた。

「小塚さん洋画は観る?」
「たまにですかね」
「そっか」
「先輩詳しいですよね。なんかおすすめ教えてください」
「そうだなあ、ヴェンダースとかいいんじゃない」

 ハルコはその足でレンタルショップに行き『パリ、テキサス』のDVDを借りた。3回チャレンジして3回とも開始10分ほどで寝た。次にシフトが被ったときに話したら先輩はそれがいたく気に入ったらしく、ハルコは先輩のアパートに度々招かれては映画を観るようになった。
 観たとは言ってもハルコはたいていの場合10分か20分すると寝てしまうので内容は覚えていない。うとうとして目を覚ますと先輩は嬉しそうに笑ってハルコを見ていた。

「先輩って変な趣味してますね」
「ん?」
「映画のはじめの10分で寝落ちする女子を眺めて何が楽しいんですか」
「別に楽しくはないけど」
「でも笑ってる」
「思い出し笑いだよ」

 付き合おうとも好きとも言わないし言われないけれど、キスもハグもした。それ以上もした。もう子供じゃないと言いながら、母親には『友達の家に泊まる』と連絡したハルコは自分がひどく子供じみていると思った。
 大学が夏休みに入るとハルコはアルバイト以外の時間はだいたい先輩の部屋に入り浸り、時間があればあるだけ寝た。雑司が谷のアパートにある古いエアコンは効きが悪くてうるさかったし、シャワーはなかなかお湯にならなかった。それでもハルコは先輩と一緒に居たかった。
 何となくこの関係が求めていた「愛されたい」とは違うと気付いていた。先輩はハルコを抱くとき、いつも悲しそうな、迷子の子供のような顔をして、ハルコの向こう側に誰かを探す。それがここには存在しないけれどかつて存在した誰かなのか、あるいは先輩自身なのかは分からなかった。

 ある夏の暑い夕方、いつも通りの手順で事を終えて、順番にシャワーを浴びて狭いベッドに潜り込むと、先輩は天井を見つめたままぼそぼそと話し始めた。

「小塚さんはさ、忘れたい人っている?」
「忘れたい人?」
「出会わなきゃよかった、とか、もう二度と会いたくない、とか」
「えー、別にいないです」
「平和に生きてきたんだねえ」

 たぶん先輩はハルコの「先輩は?」のひと言を待っているのだと思った。いやだ聞きたくない。聞きたくない聞きたくない聞きたくない。でも、聞かないとこのシーンが進まないというのも分かっていたから、諦めて口を開く。

「……先輩は?」
「うん、いる」
「どんな人?」
「……小塚さんみたいに映画のはじめの10分で寝落ちしちゃう女の子」
「ふうん」

 その人が先輩の何だったのかは聞かなくたって分かる。ハルコは天井を見つめる先輩の横顔を見る。綺麗な鼻筋だなと思う。

「もう会いたくないから忘れたいんですか?」
「もう会えない。死んじゃったんだ」

 だから、忘れたい。先輩の声がぽつんと薄暗い部屋に落ちていった。
 狡い、とハルコは苛立った。なぜ死んでしまったのか、彼女とはどうやって知り合ったか、彼女が好きなサイゼのメニューが何だったか、彼女と初めて一緒に観た映画が何だったか、何回デートをして付き合ったか、何回手を繋いで何回キスをして何回したか。きっと聞いたら先輩は答えるのだろう。
 ここにいない彼女は先輩の中にまだ存在している。先輩の目には映画のはじめの10分で寝てしまうハルコを通して、映画のはじめの10分で寝てしまうその人が映っている。

 ハルコはふと、幼い頃に読んだおまじないの本のことを思い出した。『好きな人と両思いになる方法』とか『席替えで気になる人と隣同士になる方法』とか、たしかそんなのだった。その中に当時は使い道が分からない項目があったのだ。

「……バラの花」
「ん?」
「バラの花びらを燃やすと忘れられるらしいですよ」
「何それ」
「おまじない」

 それから服を着て、ハルコと先輩は駅の近くにある花屋に行った。とっくに夏の盛りを迎えていたからバラが置いてあるのか心配だったがちゃんとあった。赤いバラを1輪だけ買ってまたアパートに帰り、適当な皿に花びらを毟った。こんなに綺麗に咲いたのにごめん、と心の中で謝る。

「本当に燃やすの?」
「忘れたくないんですか」
「……分かんない」
「意気地なし」
「うるせ」
「花びらって水分多そうだけど燃えるのかな」
「燃えるんじゃない、有機物だし」
「まあいいや。先輩、ライター貸して」

 先輩がデニムのポケットから取り出したライターで花びらに火をつけた。やっぱりなかなか燃えなかったけれど、やがて赤い花びらが黒く焦げて次から次へと燃え移っていった。理科の実験みたいだと先輩は笑った。 
 ハルコは先輩の黒目に映る炎を見つめた。その目にハルコは映っていない。揺らめくオレンジ色がふるふると震えて、ポロリと一粒溢れていく。ハルコは目を逸らした。見てはいけないような気がした。

「今日、命日だった」
「そうですか」
「もう忘れてやる」
「忘れたら、悲しい?」
「悲しくない」

 ハルコは先輩の震える背中に、自分の背中を合わせた。バラの花びらが燃え尽きるまでそうしていた。

「……私もやっぱりいました。忘れたい人」
「誰?」
「内緒です」

 きっと、寝て起きたら綺麗さっぱり忘れている。おまじないは上手くいくとハルコは思った。

 カーテンの隙間から差し込む強い光に目を覚ました。ベッドサイドに転がっているスマートフォンの画面を見ると「6:07」の表示。夏の太陽は早起きだ。ハルコの隣には知らない男が眠っていた。
 男を起こさぬようにハルコは狭いベッドから抜け出した。エアコンはうるさいしシャワーはなかなかお湯にならなかった。もう二度とここへは来ないだろうから構わない。
 ハルコは愛されたかった。だから東京の街のどこかに愛を探しに行く。

***

また別の、東京の片隅のお話です。

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