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さようなら、死にゆく承認欲求

今からおよそ1年と半年前の私はこんな記事を書いていた。

このときの私は前の会社を辞めたてほやほやで、退職ハイとも言うべき精神状態だった。今はスローペースながら外に働きに出て、それなりに適当に家事をして、わりと健全な精神と肉体で暮らしている。Twitterはするけど。

そうして最近ふと気付いた。
ヤツが死にかけている。承認欲求ってヤツが。

これから先どうやって生きていこう、仕事はどうしよう、私が生きている価値などあるだろうか、などと考えて消えたくなることはままある。職場での事務的な会話と、夫との「かえる」、「りょ」あるいは適当なスタンプ、今日の献立で埋まるLINEのトーク画面に寂しさを覚えることもある。

たいていそれはホルモンバランスの暴走で、美味しいご飯かチョコレート、映画やドラマや小説を摂取して紛らわす。それでも無理なときは時間が過ぎるのを待つ。夫に当たることもあるけれどそれはごめん。

だけど、じりじりと身を焦すような自分を認めてほしい気持ちや、言葉にならない焦燥感、制御しきれないような他人への羨望はすっぽり私のなかから抜け落ちたようだ。

理由のひとつは、生活のペースが穏やかになったから。もうひとつは、神になったから(頭がおかしくなったと思われたらすみません、頭はおかしいかもしれないけど大丈夫です)。神というのは、つくるということだ。

最近、ちょこちょこと小説や脚本を書くようになった。誰かに見せたり見せなかったりする。書いている瞬間、私はその世界の神になる。誰かと誰かを街角で偶然で合わせることも、買ったばかりのケーキを地面に落とすこともできる。キャラクターの命をねじ伏せることも、地球を滅亡させることも、私の気分と指先次第だ。そんな根性はないからやらないけれど。

書いているあいだ、私は誰の承認も求めない。物語を紡ぎエンドマークを打った瞬間にとりあえず走りきって神としての役割を終えた満足感を得る。もちろん、これは面白いのかと他人の反応や評価は気になる。けれどそこに認めてほしいという思いは今のところあまりない。

別に書かなくても、料理でも裁縫でも何でも良かったと思う。私は料理も裁縫もそれほど好きではないからたまたま物語だった。ただ「生み出す」という行為は暴走しそうな承認欲求に何らかの効果があったらしい。

これが進化なのか退化なのかわからない。これは健全な精神と肉体を守るための術だったのかもしれないし、単純に自分が大人になって刺激を欲しなくなってきただけなのかもしれない。あるいはそのうちまた承認欲求の化け物が新たに生まれるのかもしれない。

かもしれないだらけだ。でも20代というフェーズでの私の承認欲求は手懐ける以前にどうやら死ぬ。死んでしまったものはゾンビとして生まれ変わらないようにきちんと埋葬して供養しておこう。

さようなら、私のなかの死にゆく承認欲求。

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