生きとし生けるもの、それぞれの地獄。
冬クールのドラマが続々と始まった。今日は、楽しみにしていた作品のひとつ「恋せぬふたり」の話をしたい。
恋せぬふたり
アロマンティック・アセクシュアルの2人が出会い、同居生活を始めるお話。性的指向のひとつであるアセクシュアルは何となく聞いたことがあったけれど、アロマンティックという言葉はこのドラマの予告で初めて知った。
アロマンティックとは、他者に恋愛感情を抱かない恋愛指向のこと。
アセクシュアルとは、他者に性的に惹かれない性的指向のこと。
恋愛指向と性的指向は必ずしも一致せず、別物として捉えられる。そしてどちらもスペクトラム的広がりを持つ。言葉の定義はさまざまで「アロマンティック・アセクシュアルだからこう!」と決まったものではない。考証チームのブログで解説されているのでお勉強したい方はぜひ。
1話では、恋愛を前提としたコミュニケーションに馴染めず生きづらさを感じている主人公・咲子(岸井ゆきの)が「アロマンティック・アセクシュアル」という言葉に出会い、同じくアロマンティック・アセクシュアルを自認する高橋(高橋一生)との交流が始まる場面が描かれる。
NHKのよるドラは30分の短いドラマ枠。そのためか、咲子が「自分は『アロマンティック・アセクシュアル』なんだ!」と自認し、高橋に「恋人でも夫婦でもない家族になろう」と同居生活を持ちかけるまでがあまりにもテンポ良く進む。大丈夫なんだろうかと少しハラハラしながら見ていたのだが、それは高橋の「僕のこと嘗めてます?」の台詞で全否定された。
先に触れたように、性的指向や恋愛指向というものは二項対立のようにはっきり分けられるものではなく曖昧なグラデーションのような広がりを持つものである。さらに、同じ指向を持つ人同士であっても必ずしも価値観や好みは一致しない。それはマイノリティと呼ばれる「特別な」人だけではなく、いわゆる普通の恋愛をして結婚をしている人たちも同様である。
私たちは生きているあいだ、誰とも分かり合えないそれぞれの地獄を背負って生きている。既婚か未婚か、子供はいるか、家族はいるか、恋人はいるか、友達はいるか、稼ぎはいいか、学歴はあるか、持ち家か借家か、持病やハンデはあるか、容姿はいいか……。さまざまな分岐をくぐり抜けて、それぞれの手元に残った地獄とともに生きている。
たとえ性的指向が自分と近しい人であってもその地獄の中身は同じではない。私と似た苦しみを持つ人に共感したとしても、「私と同じ」と言ってしまうのはとても乱暴なことだ。
そんなことは頭では分かっているはずなのに、人間は名前をつけて分類すると安心して一括りにしてしまうところがあるらしい。劇中で咲子が高橋に対して異様なまでにテンション高く「自分と同じだ!」と懐こうとする場面はものすごく危なっかしく見えた。それに対しての高橋の「僕のこと嘗めてます?」だ。これは効く。
視聴者は、このドラマを通して「アロマンティック・アセクシュアル」である人たちのある一面を知るだろう。おそらく私と同じように初めてこの言葉に出会った人は「アロマンティック・アセクシュアルってこういう人たちなんだ!」と納得するかもしれない。そして「あの人ももしかしてそうなのかな……」と勘繰るのかもしれない。そんなときには高橋一生の声で心の中でこの台詞を再生しよう。
「僕のこと嘗めてます?」
きっとこのドラマはアロマンティック・アセクシュアルを自認する2人が、悩んだり立ち止まったりしながらもそれなりに楽しく生きていく前向きな作品になるだろう(願望)。咲子も高橋も、視聴者が「幸せになれよ」と応援したくなるようなキャラクターなのだと信じている。それでもやっぱり、地獄は地獄のままなのだ。他人の地獄を嘗めてはいけない。分かった気になるのはまだ早い。
アロマンティック・アセクシュアルの人たちを紋切り型に定義するのではなく、ある地獄を背負う人の、ある人生の一場面を扱うドラマ。「私もあなたも地獄を背負いながらどうやって生きていく?」を問いながら、主人公たちの行く末を見守りたい。
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