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【エッセイ】弱くなければいけない社会で生きる

 幼少期から「アホ」「ボケ」と言われ続ける野球の世界で生きてきたため、褒められるとどういう顔をして良いのか分からず、昨今の皆が優しさを演じる社会の中では、引き攣った表情でペコペコ頭を下げることしかできない。
 あまりにも褒められたり心配されたりということが無かったため、小学生の頃に監督に「大丈夫か?」と声をかけられて泣いたことがある。何に対してその言葉が出たのかは思い出せないし、嬉し涙だったのか、それとも言葉の裏を読んで怖くなったのか。それももう忘れた。殴られることは多かったけど、そんな声をかけられたのは後にも先にもあの時の記憶しかない。

 スパルタの世界で、ファランクスよろしく亀のように体を固めて苦痛に耐えてきたのだけど、喉元過ぎればなんとやらで、それも良い思い出と思ってしまうのは、年月がその濃度を薄めてしまったからだろう。
 青春の長い時間を「努力・友情・勝利」とジャンプのテーマのように駆け抜けてきたが故に、努力至上主義をいまだに強く信じている自分がいて、その考えは自分によく合っている、と思う。というのも、努力に帰属させれば、自分の責任で物事が完結して苦しむことがないからだ。上手くいかなくても努力が足りなかったねで終わる。しかしそれが、誰かや何か、それが社会システムや環境によるものであればあるほど、自分ではどうしようもない大流に放り込まれるようで、そうなるといよいよ何もできないし、何もしないことが正解のように感じられる。それはあまりに、今まで生きてきた自分自身に対して失礼だ。
 これを言うと、旧来的なマッチョイズムの生み出した化け物だという声もあるのだろうし、マッチョイズムは最近の潮流に合わない。

 SNSを見れば、常に誰かが躁と鬱を行ったり来たりしていて、その弱さを隠さず表出して自分の存在を社会に示している。弱っている人には手を伸ばしたくなるもので、また、嘘偽りなく心から心配もするから声をかけてみたくなったりするのだけど、その先にはまた同じ躁と鬱がやってきて、濃度の違う不幸の色がグラデーションされて侵食して来るし、その色は非常に濃い色をしているから、こちらの精神をも蝕もうとする。
 映画を見ても、一度不幸な目にあったり、家族のしがらみがあった人が成功を掴む話が多く、漫画では「転生したら……」うんぬんかんぬんなものが非常に多い。まるで現世は諦めてしまったかのようだ。

 だから不幸でなければいけないのだ。不幸でなければ創作はできないし、不幸であった時のパワーを使って大成しなければ人の共感は得られず、生み出したものもそのままゴミ箱行きになる。
 だから、中流家庭で部活もさせてもらえて、大学院まで進学させてもらい、心身ともに頑強な者には、創作など夢のまた夢で、不幸でないという不幸を背負って生きていかなければいけないのだろう。

冗談じゃない。

 みんなで仲良く、無理せず、やりたいことをしましょう。会社も辞めてしまいましょう。みたいな本が書店に溢れんばかりに置かれた現代で、一見苦しみから解放される耳当たりの良い言葉の羅列に気持ちよくなって、それ以外の考えを否定するその姿こそが、人類の思考を一つに収束させようとするディストピアではないか。
 右とか左とか、鳩とか鷹とか、保守とか革新とかそんなことどうでもよくて、考え方や生きてきた歴史を強要するなと言うことで、そういう意味で私は努力至上主義を信じたい。ただ、努力から逃れて生きることは努力の先に掴み取る世界線を感じることはできないし、私は努力をしないことによる、心の安寧は感じられないのだろう。

 ただそれだけのことである。

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