「どうして?」は、常には分からない。

ふとした時に思い出すのは、自分が病気になったときのこと。私は今でも、「どうして」私が病気になったのか、分からないでいる。

***************************************************

以前、noteにも書いたよう、私は24歳のときに大きな病気をした。

結果的にそれは「良性腫瘍」で、予後は良かったのだが、お腹を切る手術が必要な程。手術前は悪性腫瘍(つまり、癌)の可能性もあると言われていて、大げさだけれど24歳の私は生死、自分が生きているということについて考えさせられた大きなきっかけだった。

24歳で大きな病気になった私は、「どうして私がその病気になったのか」がとても気になった。もちろん手術前は、「どうして」「なんで」とは思っても、それを尋ねる余裕はなく、ただとにかく待ち受ける検査や手術に心を構えて望む他なかった。現実をただ受け止めることに精一杯だった。

手術も無事終わり、検査も済んで、結果的に「良性腫瘍」であったことが分かったことでとにかくほっと安心した(簡単に書いているけれど、この結果が出るまで本当に怖くて、いつも頭から離れなかった。このことはまたいつか書けたらいいなと思っている)。当時、高等学校の講師として「生物」を教えていた私。きっとこれも一つの運命なのだと思った。(そう思い込もうとしたのだと思う。)

***************************************************

ただ時間が経って、徐々に身体は元気になるにつれ、どうして私がこの病気になったのか(防ぐことはできなかったのか)かがものすごく気になって仕方がなくなった。それは、再発の恐怖に怯えたのもある。私が手術をしたのは、婦人科系の臓器で、もし再発すれば、今後妊娠・出産ができなくなるかもしれない。

「どうしてどの病気になったのか」

その「原因」が分かれば、原因を取り除いて、再発に備えることができる。

半月に一度になった定期検診の際に、私は先生に尋ねた。

「食事やストレス、元々の性質もあるし、結局のところ何が原因かは一概には言えない。誰にだってなる可能性はある病気」先生の答えは、不明瞭だった。

今思うと、とても誠実で、はっきり分かっていないことは断言をしない、本当にしっかりとした先生だったのだと思う。ただ、当時の私にはそれが不満だった。どうしてその病気になったのか、それがどうして私だったのか。後者はもちろん分からないことは分かっていたけれど、医療とは、科学とは、「どうして」に100%答えてくれるものではないことを身を以て実感した。

「どうして」を求めて、私はいろんなことを調べた。それから一番の助けになったのは、鍼灸や漢方などの「東洋医学」であった。(怪しい「ニセ科学」「偽医療」にもたくさん出会ったが、そこで騙されなかったのは、科学を学んでいたからだろう。自分がとびきりつらいとき、何か強く断言してくれるものにひかれそうにもなるものだが、断言できるものなんでない。それを知っているということ、科学の役割はここにもあると強く思う。)

「どうして」という因果関係的な原因は分からないけれど、気の流れを良くする、気の巡りを整える等の「身体全体を整える」ことで病気を予防することはできる。冷えや食習慣に敏感になり、頭で原因を考えるのではなく「身体の声」をしっかりと聴いて、身体が気持ち良いよう、無理をしないよう生活ができるようになったのはこの頃からだ。

***************************************************

自然科学は、「どうして」「なぜ」を考え、それについての予想・仮説を立て、それを立証していく学問である。実証性、再現性によって支えられる科学の知は極めて強力だ。(現に私の病気は、西洋医学によって原因である部位を特定してもらい、手術によってそれを取り除く方法で助けられた。)

ただし、「どうして」「なぜ」とという問いは、万能ではない。特に「どうして病気になったのか」など生きることそのものを扱うときに、「原因」を特定しようとする問いは、時に自身を苦しめる。

原因は分からない。でも、ただ、そうなのだ。原因は、分からないけれど、「こうしていれば」何となく上手くいく。だったらそうしよう。そういう世界もあることを私は知った。

私は、「科学病」(知能が前面に出すぎた現代人の性のようにも思える)みたいに、常に「原因」を見つけて、それを解決するようにしたくなるけれど。 何故だかは分からないけれど、確かに「そうしていれば」いい、「そうしていれば」心地よいことがあることは分かる。

科学的に説明しようとすることと、それには限界があること(限界があるというよりも役割違い)とのバランスを常に取りながら生きていきたいな、と思う。片一方になるのも危険だと思うから。

#エッセイ
#私の仕事
#考え中
#科学と物語とをつなぐ言葉
#科学と物語とが出会う場所

#科学教育 #理科教育の役割




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?