『死』を考える
昨日、読んでたブログに
『悩みやすい人が、悩まなくなる方法』
を書いてる人がいた。
その人の言う、結論は、
"自分がいつ死ぬか決めてみる"
お年を召した、じいちゃんやばぁちゃんが、ズケズケ物を言うのも、
人の目を気にしなくなるのも
もうこの世にいる終わりが見えてるから、そんなこといちいち気にしててもしょうがない
意味がない
終わりをしっかりと感じていると
自ずと、悩んでる暇はない
決められることは決めて
分かんないことは聞いて
進みたい方に行くだけ
相手にしてられないことはほっぽって
我が道をゆくのみ
という理論
いつまでも生きる
終わりがこないと思ってるから
ウダウダ無駄に堂々巡りをしてしまう
わかり切った結論をこねくりまわしてしまう
結果めちゃくちゃ悩みやすい
という見解
はぁ〜、なるほどなぁ、
って思って
決めてみました
わたしの死ぬ日
2079年10月3日
日にち決めてもぶっちゃけリアルには感じないけど、
ここで大切だと思ったことは、
『死ぬ』意識
決めた日よりずっと早く死ぬかもしれない
なんなら明日突然に、とかある
死を頭の片隅に置いていると、
選び方って変わる
明日死ぬのに、あの世に持っていけない、この買い物したいか?
1週間後に死ぬのに、人から言われた些細なことに腹を立てて時間を潰したいか?
1ヶ月後に死ぬのに、わたしはこの仕事をしたいか?
1年後死ぬなら、どんな生き方を選びたいか?
選択肢狭まるー!
っていうか、めちゃくちゃ削がれる!って思った。
シンプルに、え!?わたし、大切なことこれじゃん!って
むしろ、これさえあれば、他はいらないな、ってなる。
お洒落なお皿を買って盛り付けるよりも
今すぐプリンをつくってダサい皿に盛って美味しいねー、と言いながら旦那と顔を突き合わせて、ほおばる『時間』のが大切!
お金貯まってからの旅行より、
まめに帰る実家での、母との会話、生きているうちに会えるうちに、生まれた時のことだの、名前の由来だの、馴れ初めだの、なんだの、母の人生に触れる『時間』のが大切!
1分1秒、が、大切だ!
面と向かって話す時間
そろって食べる何気ない朝食
ドライブでの他愛のない会話
寝る前の数分のおしゃべり
起きてからの、おはよう
大切な人と過ごす時間があること
あとは、自分を表現すること
とどのつまり、死ぬってなって何がしたい?
はこの2つしか浮かばなかった!
物も、お金も、名誉も、損得も、
『死』を目の前にしたら、決して重要なことではない
むしろ、どうせ死ぬんだから、要らないって気にすらなる
思いっきり、やり切る、のみ
そう思わせてくれる。
終わりって凄すぎる!な、って思う
終わるを強く感じれば、自ずと、大切にする、感謝する、ありがたく感じる
あったらあっただけ、慣れて、当たり前にしちゃう。
忘れるのも得意。
自堕落な、人間だなぁ、わたし。
そうそう、もやっとした堂々巡りが、
死への想像を持って、
すぱんと、切り替わったのが、何を隠そうこのわたし。
死は生を浮き上がらせる。
この考え方に共感というか、納得してます。
『死』について、考える
これからのわたしの引き出しに追加です◎
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