見出し画像

#やまゆり園事件は終わったか~福祉を問う

19人の命が奪われた相模原障害者殺傷事件は、元職員の死刑判決が確定しました。しかし、なぜ福祉の現場で事件が起きてしまったのかという疑問は解明されていません。私たち取材班は、もう一度、取材を始めることにしました。(有料記事の長期連載です)


プロローグ

 事件から約1年後の2017年7月6日、私は現場となった「津久井やまゆり園」(相模原市緑区)の園内に入った。取り壊しを前に、神奈川県が報道陣に公開したのだ。現場に立つことができる最初で最後の機会だった。

 その日感じた違和感は忘れられない。私は事件から1年間、園関係者に取材しながら、事件や事件前の暮らしについて話を聞き、記事を何本も書いてきた。「最重度の障害がある人の暮らし」を少しは知った気になっていた。だが、園内に入った時に感じた。「何も知らなかった」

 やまゆり園はまさに、「人里離れた山間部」にあった。深い緑に囲まれた、約3万平方メートルの広大な敷地に、園は建っていた。その日は夏の始まりを告げるような青空と白い雲で、ひときわ緑が鮮やかに見えた。私は、神奈川県職員の案内を受けながら、事件直後から取材を続けてきた同僚記者らと共に、園内部に足を踏み入れた。

 女性専用の「はなホーム」という棟。植松聖死刑囚は事件当時、まず、この棟の窓ガラスを割って部屋に侵入し、室内で寝ていた女性(当時19歳)を殺害。その後、廊下に出て、他の部屋にいた入所者を次々と刃物で刺していったとされる。

 幅約2メートルの長い廊下の南側に、居室が並ぶ。古い病院のような圧迫感があった。園内は全て専門業者によって清掃が施され、血痕など事件の痕跡はなくなっていた。それでも、私はその廊下に立ったとき、うめき声が聞こえるような気がした。

 被害者が出た居室に一室、一室、入った。初めに入ったのは、日当たりの良い約12平方メートルほどの室内。窓の外には緑が見えた。のどかな景色とは裏腹に、私は、壁が迫ってくるような形容しがたい恐怖感に、足が震えそうになった。

 クローゼットに「ズボン」「下着」と分類したプレートが張り付けられた部屋もあれば、窓にディズニープリンセスのシールが残る部屋もあった。そうした小さな跡が、事件当日まで、そこに「日常」があったことを感じさせた。

 足を踏み入れた日から3年がたったが、山間部にポッと出現する大規模施設と、内部の光景、空気感が心を離れない。あの時に感じた圧迫感、恐怖感は、紛れもなく、残虐な事件が起きた現場ゆえか。自問自答してきたが、それだけではない気がする。

 事件がなければ知らなかった施設の存在が、ショックだったのだ。自分が自由を享受して街中でのびのびと暮らしている数十年の間、あの施設の内部で完結するような暮らしを、続けている人たちがいたということが。

 施設での暮らしを、「イコール不幸」だとは思わない。取材を通し、「施設で医療的にも充実した支援を受けながら、穏やかな日々を積み重ねてきた」と話す入所者家族が何人もいた。涙を流しながら、そう語る被害者家族もいた。山間部であろうと、地域住民とのつながりがあったことも知った。

 それでもショックだったのは、「街中での自由な暮らし」を楽しむ私の目線からか。そうではない、という感覚がある。やはり、重い障害がある人々を、社会が大規模施設に追いやった先の事件だったのだ。その圧倒的な不公平に、胸が苦しくなるのだ。

 事件の裁判が終わり、何かが解決したか。取材メモのファイルを開く。ある遺族の願いが目に留まった。

 <社会の多くの人が、これを機会に議論していってほしい>

                           宇多川はるか




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?