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健さん(27)ひとみの決意

静香の話は、そこまでだった。
少し落ち着きを戻したひとみに、「健兄さんをお任せします」と、再び玄関で手を握り、アパートに戻って行った。

ひとみは、父良夫に話の内容を言うのは、恥ずかしい。
再び、自分の部屋に戻って、いろいろと考える。
「そうは言われても・・・まだ、おはようございます、としか言えないしなあ」
「でも、健さんを他の女に取られるなんて、絶対に嫌」
「当面のライバルは料亭の圭子さんか・・・」
「女子高生は、さすがに騒いでいるだけで・・・」

しかし、そんな他の女の分析をする前に、「まずは自分だ」と思う。
「おはようございます、の次に、もう一言加えないとなあ」
「でも、何ていうの?」
「下手なことを言って、百年の恋もそれでおしまいにとか」
「うーん・・・難しい・・・」
と、なかなか具体案が見つからない。

「お天気を言う・・・あまりにも陳腐かなあ」
「雨の日はどうする?」
「玄関前のお掃除も、難しいし」
「わざとらし過ぎる」

結局、思いついたのは、「行ってらっしゃい」だけ。
これでも、相当陳腐になるけれど、それでも健から「はい」ぐらいは返って来ると思う。

さて、ひとみが、そんなことを思って、リビングに入ると、父良夫。
「ひとみも、たまには健君に、贈り物でもしたら?」
「家賃をもらっているばかりで、申し訳ない」

ひとみは、またそれで困る。
「そう言われましても、何を理由に?何の名目で?」

すると、父良夫は呆れ顔。
「あのさ・・・自分で調べたら?」と、突き放す。

ますますモジモジとするひとみに、父良夫は、また皮肉。
「居酒屋のひとみさんが、パーティーとか言っていたなあ」
「あんな和風の店で、ケーキだとさ」

その皮肉で、ひとみは、ようやく反応。
「あ・・・もしかして・・・健さんのお誕生日?」
「そういえば・・・近い・・・」

父良夫は、意地悪くも含み笑い。
「ひとみが何もしなかったら、私は美智代さんの店に行くけれど?」
「そんな噂が耳に入れば、料亭の圭子さんだって、何かするだろうね」
「何しろ健君の誕生日は、免許証で知っているしさ」
「それに、噂では、この前の元気な女子高生たちが、駅で健君を見つけては、囲んでいるらしいしさ」

ひとみは、ひどく焦るし、父良夫の含み笑いや、言葉が一々気に入らない。
そうかと言って、健の誕生日を把握していながら、6年も行動をためらって何もしなかった負い目もある。

ひとみは、再び、自分の部屋に戻り、また対策を考える。
「行ってらっしゃい」を、付け加える程度ではない。
健の喜ぶものを、考え、準備しなければならない。
そうでないと、自分の心が収まらない。
ましてや、美智代さんの店ならまだしも、圭子さんの料亭で、お酌をされている健なんて考えたくもない。
女子高生たち集団に囲まれて、「乾杯!」なんて黄色い声で大騒ぎされている健も、想像したくない。

もうこうなると、静香に言われた「健兄さんをお願いいたします」も考えない。
「誰に何を言われたとか、関係ないの」
「私が、健さんを満足させるの、意地でも、何と言われても」
「夜に押し掛けてでも」

切羽詰まったひとみは、ようやく、その目に闘志の炎を灯している。

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