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第8回 横浜トリエンナーレ行ってきた。

 率直な感想を述べるならば、なんていうかメッセージ性が強すぎた。
 あまりにもメッセージ性が強いあまり、ちょっと重いし、全体的に怖い。反戦や人種差別や歴史の重みが創作の核になるのはわかる。わかるのだが、これだけのサイズの箱でそれらをぶつけられ続けると、どうにも正直辟易してしまう。

 別に見栄えがいいものだけを展示しろなどとは言わない。それでも、これはトリエンナーレ、芸術祭なのだ。祭りなのだ。これがデモだったり、講演会であれば、訴えかけてくる強いメッセージは紛れもなく正解だと思う。だけど、祭りなのだから、もうちょっと軽い気持ちで楽しんだっていいじゃないか。そう思うのは、私がさして芸術を嗜むことのないにわかだからなのかもしれないが。
 ひとつかふたつでいい、奥能登国際芸術祭でいう《時を運ぶ船》とか、大地の芸術祭の《たくさんの失われた窓のために》みたいな、あの芸術祭といえばアレ、みたいな写真うつりがよくてシンボリックなものがあってもよかったんじゃないだろうか。「みんな、こういうのが好きなんでしょ?」といった客におもねるような作品を置きたくない気持ちはわからなくもないが、「みんな、こういうものは好きなのだ」。だから、遠くても観に行く。そこに確かな吸引力がある。芸術の入り口は軽くたっていいと私は思う。

 個人的な話をすれば、芸術祭には「よくわからないけどなんだかすごい」ものを見たくて私は赴いている。そこに言葉はいらない。アーティストを経由して降ろされた、神からの意味も分からぬ問いかけに私は出会いに行っているのだ。
 そういう意味でも、今回の芸術祭は全体を通して言葉が多すぎた。説明は助かる。作者の背景も大切だ。だが、全部はしなくていい。そこは親切でなくていい。後はどうぞご自由に、あなた程度ではとても理解できないでしょうけど――それくらいでいいのだ。すべてを理解することなど到底できない無知で無力な己はただ、神の代弁者の前に頭を垂れる、芸術なんてそんなくらいでちょうどいい。そう、私は思っている。

 最後に、オズギュル・カー《ヴァイオリンを弾く死人(『夜明け』より)》と、プック・フェルカーダ《根こそぎ》は個人的に好きだった。どちらも背後にはいろいろ思うところはあるのだろうが、最終的に落ち着いたぺらっぺらのダークさがよかった。
 《根こそぎ》では、ビデオの前にビーズクッションが置かれていたものだから、座ってビデオを観ている間、完全にダメな人になっていた。果たしてこれは、どこからどこまでが芸術なんでしょうね?

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