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あそびらきと子育て

右足の薬指だけを動かそうとしてみる。
「薬指だけ」とどんなに強く意識しても、隣り合う指が先に動いてしまう。

先月誕生した我が子を見ていると、それと似たもどかしさを感じる。
きっと新生児は、身体のどこを動かすにも「足の薬指状態」なのではないか。手を口に持っていくだけでもおぼつかず、身体全体があらぬ方向に、うにうにと動いてしまう。

あぁ、ヒトという生き物は、なんと未熟な状態で誕生するのだろう。

ヒトが未熟な状態で誕生することと、ヒトがよく遊ぶ動物だということは、きっと深く関連している。

個体として、ちゃんと身体を思うように動かせるようになることはもちろん、多様で複雑な自然・社会環境に対応しながら生きていくためには、未熟な状態で誕生し、外界で長期間の発達や学習を重ねることが必要不可欠なのだ。
逆に言えば、それだけの適応力を持っているからこそ、ヒトという生物はこれだけ世界中で繁栄できたのだろう。

とりわけ、子ども時代の生活の中心である遊びは、ヒトにとって特に重要な意味を持つ。子どもの遊びは、生育環境に即した発達や学習を促すものだからだ。
その時代、その場所の環境にあわせてヒトが成長するために、十分に遊ぶことは不可欠なのだ。

(そう強く思うのは、「普通」ではない私自身の育ちも関係している)

ただし、進化的な要因と、心理的な理由を混同してはならない。

発達や学習はあくまで結果として生じるものであり、遊びは発達や学習を意図して行われるものではない。
遊びは大人が「学習せよ」と目的を与えて行わせるものではないし、もちろん子どもが「発達するぞ」と思って遊んでいるわけでもない。
遊びの目的は心のうちにあるものだから、遊ばせられてしまったら、遊びが遊びでなくなってしまい、本来の遊びの価値も失われてしまう。

この混同を防ぐことは当たり前のようだけれどとても重要で、だからこそ私は、大人が子どもを遊ばせるのではなく、放置するのでもなく、「あそびらく」ことが必要なのだと考えている。
「あそびらく」という造語の意味は、遊ぶことが誰かの遊びをひらくということ。特に大人が遊ぶということは、遊び心を持って何かに取り組むことと解釈してもかまわない。

自然に遊びが生まれる環境を、子どもの未来のために大人の責任でしっかりと育まなければならない。

「あそびらく」ということについて、こう書くだけでは、ちょっと物足りない。
「発達や学習」のためだというと、要するに遊びは子ども本人の未来のために必要なんでしょ、ということになる。
でも私は、遊びが本人の未来のために必要だというだけではなく、今現在のコミュニティにとっても必要だと考えているのだ。

20代のころに修士論文を書く中で、私はそんなアイデアを抱いた。
遊ぶ子どもの存在は、大人を含めたコミュニティのなかで何らかの役割を果たしているのではないか、と。

個体レベルで遊ぶということの意味を考えるだけでなく、コミュニティというレベルで遊ぶということの意味を考えることも同じくらい重要ではないだろうか。

近年、多くの先進国で、住民あるいは行政によって子どもの遊び場づくりの取り組みが行われている。
そのなかには、遊びの目的を外的に与えて強制してしまうようなものも含まれる。繰り返しになるけれど、あくまで遊びは外的に目的を与えられるものではない。
さらに、たとえ子ども主体の自由な遊びが生まれる場を作ろうとしているものであっても、子どもの遊びが今ここにあるコミュニティに役割を果たしていると捉えるかどうかで、取り組みの方向性は大きく変わってしまう

もし子どもの遊ぶ場が、子ども本人の未来のためにのみ必要ということであれば、極端な話、子どもの遊び場は大人のコミュニティから隔離されていてもかまわないことになる。
専門職の大人が関わって子どもの発達と学習を促すことさえできれば、子どもの遊ぶ場など、他の大人の迷惑にならないところに閉じ込めておけばいい。

でも、子どもの遊びが今ここにあるコミュニティにとって必要だという発想に立つと、話は別だ。
今現在の私たちの暮らす世界に、いかに子どもの遊ぶスキマを作ることができるか、という考えなければならない。
大人と子どもの生活を切り離すのではなく、共に生きることにこそ、意味があるのだと私は考えている。

だからこそ、大人が率先して遊べる隙を作るような活動「あそびらき」を大事にしたいのだ。

「あそびらき」というアイデアとその実践については、拙著『マイマイ計画ブック かたつむり生活入門』に詳しく書いた。ただ、それ以降もこうもりあそびばを開き続け、さらに最近は自分たちの子育てが始まり、新たな思いもあれば、より深く考え始めたところもある。

このマガジンは、「あそびらき」を通底するテーマとしつつ、私自身の子育てのこと、近所の子どもとの遊びのことなど、気の向くままにいろいろと書いていこうと思う。

サポートは、執筆活動の諸費用(取材の費用、冊子『小さな脱線』の制作など)に充てます。少額でも非常にうれしく、助かります。