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福島県

私は福島県出身だ。

3.11

震災当時はすでに東京で働いていた。

家族は地元福島にいた。

今は、両親と姉夫婦は母の出身地である神奈川に越してきて暮らしている。もう3年くらいにはなる。

私は以来、地元に戻る理由も場所もなくなりずっと東京にいる。

昔住んでいたあの家は年に何度か両親が行って掃除をしている。父親方の本家であり、近くにお墓もあるからだ。でも、今はもうなんだかバラバラな状態で父方の福島の親戚にはここ数年会っていない。

私が生まれ育った、高校まで過ごしたあの家はどうなっているのだろう。

私は築100年くらいのあの家が大好きだった。家の中に探検する場所がたくさんあるくらい大きな大きなお家で、物置小屋や蔵もあった。幼少期は、おじいちゃんが狩猟をしていたので山も何個もあったし、猟犬を飼い、お肉になる牛を何頭か飼い、蚕も育て繭にして出荷していた。蚕専用の小屋もあった。鶏も飼っていて新鮮な卵が食べられた。畑も田んぼも沢山あってそこで季節の野菜がとれて、お米も田んぼの面積からすると多少出荷していた気がする。田植え、稲刈り、稲を干して、脱穀。稲を干すのは太い木の枝や竹なんかを鉄棒のように組み立てたもの。大人が干す準備をする中、私と姉はバッタを捕まえたり木の鉄棒として遊んだり近くの川で水遊びをしていた。籾殻の山でも遊んだ。味噌も、漬物も、お米も、野菜も全部うちのもの。たまに、隣のお家からこんにゃく作ったのでと手作りこんにゃくをいただいた。お正月のお餅も、もち米もうちのもの、お家でついて食べた。小高い丘の上にうちがあって、その麓には大きな柿の木があった。それを収穫しておばあちゃんが干し柿を作っていた。父の手で造られた木の階段があるその丘の途中にはさくらんぼがなる木があって学校帰りに食べた。大きな木の間に秘密基地があった。クローバー畑があってずーっと四つ葉を探し、シロツメグサで王冠を作った。

書いたら書ききれないほどの思い出の場所。

陽の光が入る廊下。ずっと風が入り込む窓。遠くの山や空が見える景色。炭火のコタツ、土間にも炭火で囲えるところがあり、焼肉や焼き鳥をする。夏はそこでスイカを食べてタネを飛ばす広い玄関。

今は、どうなっているのだろうか。

思い出の場所は全部、放射能で包まれているのだろうか。そこでまだ暮らしている人は、元気なのだろうか。どうしているのだろうか。

私はそんな愛着のある自分の実家が朽ちていくのを見るのが嫌だ。あの思い出のまま、大好きなままの記憶にとどめたくて見ることから逃げている。

このままでいいのか悪いのかもわからず、ただ逃げている。

ずっと思っている。私は被災地の出身の人間なのに何かしなくていいのだろうかと。そんなに思い入れがあるんだったらボランティアでもなんでも行けばいいじゃないかと。罪悪感を感じている。地元のそんな光景を見たくないから。

こんな私はやっぱり卑怯者だ。

困っている人に手を差し伸べない、自分の守りばかりで。

あの恐ろしい映像を思い出しただけで今も胸が張り裂けそうだ。

福島のお米や野菜が売れないのは、自分が親だったらわかる気がする。それは親心からすると、自然なこと。でも、私はどうしても福島産を選ぶ。福島で採れたものは美味しい。そう記憶しているから。実際検査基準が通ったものが出回っている。

農家の方は土や木や野菜を子供のように愛し、家畜産業をされている方はたとえ出荷するのだとしてもその子達を家族のように愛している。そんな心を誰が拒否しよう。

なんでこんなことに。

なんでこんなことに。




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