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明治維新は慶喜の自滅。明治維新を起こしたのは徳川将軍

慶喜は徳川御三家の一つ。水戸藩で生まれ育ち、江戸の城にはあまり立ち寄りませんでした。

その水戸藩で独特の教育を受けるに至ります。それは水戸学

江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。在任中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍であり、最も長生きした将軍。御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務める。徳川宗家を相続した約4か月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員

尊敬する第2代藩主・徳川光圀の教育方針を踏襲している斉昭の「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という教育方針に則り、天保9年(1838年)4月(生後7か月)に江戸から水戸に移る。弘化4年(1847年)8月に幕府から一橋徳川家相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。この間、藩校・弘道館で会沢正志斎らに学問・武術を教授された。七郎麻呂の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家の養子にせず長男・徳川慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。この間、七郎麻呂は父斉昭から偏諱を頂き、松平昭致(まつだいら あきむね)と名乗る。

慶喜は水戸学という国粋思想に染まり、この“会沢正志斎”という強烈な天皇主義者に強く影響されました。

結果として家康や歴代将軍、あるいは信長以降の武士では考えられない“天皇に畏怖を覚える”という特殊な思想を内面化するに至る。

※大坂は「天領」。という文字を使いながら意味は幕府の直轄領。秀吉は源平の血がないため、でっち上げるにも低すぎたため、“仕方なく”朝廷の権威で「関白」そして太閤。でもなりたかったのは征夷大将軍。どうです?朝廷を畏怖していますか?

※征夷大将軍は天皇とは関係なく、貴族の番犬だった源平の血があれば成れた。源氏も平氏も清和天皇、桓武天皇らとつながっている設定ですが。。

会沢正志斎
斉昭から取り立てられ、藩政改革を補佐した。天保3年(1832年)、禄高150石。天保9年(1838年)、学校造営掛に任じられ、藩校の規模・教育内容を研究して『学制略説』などを著す。天保11年(1840年)には小姓頭となり、藩校の弘道館の初代教授頭取に任じられた。同時に役料200石が給され、計350石となる。弘道館は翌年開校され、水戸学発展に貢献した。

水戸学

君臣上下の名分を厳格に維持することが社会の秩序を安定させる要であるとする考え方を示し、尊王論に理論的根拠を与えた。幽谷の思想を継承・発展させたのが門人の会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)と幽谷の子藤田東湖(とうこ)である。正志斎は文政8年(1825) 3月、「新論」を著わした。 『新論』は、同年2月、江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、国家の統一性の強化をめざし、このための政治改革と軍備充実の具体策を述べたものである。そのさい、民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説いた。 ここに、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成された。また、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも『新論』が最初である。9代藩主徳川斉昭(なりあき)のもとで、天保期(1830-44)、藩政の改革が実施され、この改革の眼目の一つに藩校弘道館の建設があった。この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、これは斉昭の署名になっているものの 実際の起草者は藤田東湖であり、東湖は斉昭の命でその解説書として『弘道館記述義』を著わした。『新論』が日本政治のあり方を論じたのに対し、これは日本の社会に生きる人々の「道」すなわち道徳の問題を主題とし、 『古事記』『日本書紀』の建国神話にはじまる歴史の展開に即して「道」を説き、そこから日本固有の道徳を明らかにしようとした。東湖は、君臣上下が各人の社会的責任を果たしつつ、「忠愛の誠」によって結びついている国家体制を「国体」とし、「忠愛の誠」に基づき国民が職分を全うしていく道義心が「天地正大の気」であると説く。したがって、「天地正大の気」こそ建国以来の「国体」を支えてきた日本人独自の精神であり、内憂外患のこの時期にこそ「天地正大の気」を発揮して、国家の統一を強め、内外の危機を打開しなければならない、とするのが東湖の主張であった。

フィクションそのものであり神話を持ち出しているあたりで日本会議や櫻井よしこそのもの。

というかああいう人達がこの手の古書のホコリを払って今に打ち出した。

実は勝てていた幕府軍

関ヶ原や三方ヶ原、長篠などと違い、幕府軍と薩長が対決した鳥羽伏見などは京の近くであり、とても道が狭いわけです。

薩長が押したと見られているこの戦闘も実は図示するとこうなる

薩長隊列→→ 激突🔥 ←←←←←← 幕府側隊列

道が狭いために幕府は大軍の強さが出せない。

薩長の思わぬ善戦にあったとはいえ、粘り抜けばたたき合いとなり長期の間には幕軍が押し切れる

だが慶喜は闘志満々の幕軍を捨てて大阪から船で帰ってしまった

それはなぜか?天皇を岩倉具視がさらい、かつてありもしなかった「錦の御旗」を掲げたものだから国粋思想天皇崇拝の慶喜は気が重くなってしまったのである。

ちなみにこの錦の御旗は岩倉や西郷の手製で白い布に何となく赤い模様を書いてみたものである。

薩長善戦、慶喜敗走の報により全国大名は一気に勝ち目の出た薩長に呼応しだした。

やがて東征将軍の西郷隆盛をあげて江戸無血開城に至る

それでも、である。ここまで追い詰められた幕軍も本当は最後で大逆転できたといわれています。海軍は榎本武揚や勝海舟に見られるように圧倒的に幕府軍が上。それで勝てたのである。
■超大軍が東海道を上ってくるその時にどのような陣形になっているか?狭い東海道、国道一号を進む官軍の隊列は海から見れば

西から →→→→→→→→→→→→→→ 東へ一直線

(海から)↑  ↑   ↑  ↑  ↑ 
【艦船】【艦船】【艦船】【艦船】の艦隊艦砲一斉射撃。北が山や丘で逃げられない所に引き寄せてから艦隊が全砲門を東進する官軍の横腹に向けて全開にしたらどうなったであろう?崩れて壊乱する縦列歩兵に対して少なくとも十万の歩兵たる旗本幕府軍。乱れ敗走するところを追尾して切り込んだら?西か東しか逃げ道はなくどちらも艦砲射撃が待ち受けている状態で壊乱する。逃げることもできない。

そして事実としてこの案は慶喜に献策されたのである

しかし慶喜は天皇を要する官軍を攻撃することがどうしてもいやだった。

幼少からの教育である。天照とか神武云々

後世の印象では慶喜の影は薄く西郷が巨大に見えるが

太陽が慶喜であり西郷はそれより何十分の一も小さい惑星にすぎず、全てを決める中心の太陽が勝手に自縄自縛となって引き下がった、と見る視点が正解でありましょう。

ちなみに坂本龍馬は流れ星?

※参考

追記しますと、この時に戦力的に最強とみられていたのは苛烈な洋学志向のがり勉教育藩、鍋島閑叟が率いる肥前でした。大隈重信や江藤新平を育てた藩です。

長崎に近い地の利や刺激があったために装備は西洋の先端にかなり近かった。

大隈重信いわく 「鍋島公の様な寛大な方でなければかんたんに切腹処分であったであろう。予や江藤新平の如きは命がいくつあっても足りなかった」云々

鍋島公は重厚な穏やかな老人であった。この方の動きを全国は緊張して眺めていたが、動かず。

全国の大名が参列した桜の宴。息をのんでみなは鍋島公の言葉に耳を澄ませた。ゆるりと盃を空けながら、自然の雅の話しかせず、何も言わぬまま帰るその背を全員はそれぞれの思いで見つめた。

最強西洋装備の肥前は動かず!と

土佐の山内と肥前の鍋島は心情的に薩長に深く共感はしておらず、慶喜が総理のような形で大名が議員となる構想に当時の大インテリの2人は寄っていた節はありました。

でも慶喜が。。

山内容堂と鍋島閑叟は薩長史観の無理に気づいており、クーデターだと直感していた。
西郷と岩倉は山内がごねたときは暗殺する気でいた。


何かの形で社会に還元します。あるいは次回の無料記事に。でも水準保証の返金付きですから安心して、胸躍らせてどうぞ。