明治維新は慶喜の自滅。明治維新を起こしたのは徳川将軍
慶喜は徳川御三家の一つ。水戸藩で生まれ育ち、江戸の城にはあまり立ち寄りませんでした。
その水戸藩で独特の教育を受けるに至ります。それは水戸学
慶喜は水戸学という国粋思想に染まり、この“会沢正志斎”という強烈な天皇主義者に強く影響されました。
結果として家康や歴代将軍、あるいは信長以降の武士では考えられない“天皇に畏怖を覚える”という特殊な思想を内面化するに至る。
※大坂は「天領」。天という文字を使いながら意味は幕府の直轄領。秀吉は源平の血がないため、でっち上げるにも低すぎたため、“仕方なく”朝廷の権威で「関白」そして太閤。でもなりたかったのは征夷大将軍。どうです?朝廷を畏怖していますか?
※征夷大将軍は天皇とは関係なく、貴族の番犬だった源平の血があれば成れた。源氏も平氏も清和天皇、桓武天皇らとつながっている設定ですが。。
会沢正志斎
斉昭から取り立てられ、藩政改革を補佐した。天保3年(1832年)、禄高150石。天保9年(1838年)、学校造営掛に任じられ、藩校の規模・教育内容を研究して『学制略説』などを著す。天保11年(1840年)には小姓頭となり、藩校の弘道館の初代教授頭取に任じられた。同時に役料200石が給され、計350石となる。弘道館は翌年開校され、水戸学発展に貢献した。
水戸学
フィクションそのものであり神話を持ち出しているあたりで日本会議や櫻井よしこそのもの。
というかああいう人達がこの手の古書のホコリを払って今に打ち出した。
実は勝てていた幕府軍
関ヶ原や三方ヶ原、長篠などと違い、幕府軍と薩長が対決した鳥羽伏見などは京の近くであり、とても道が狭いわけです。
薩長が押したと見られているこの戦闘も実は図示するとこうなる
薩長隊列→→ 激突🔥 ←←←←←← 幕府側隊列
道が狭いために幕府は大軍の強さが出せない。
薩長の思わぬ善戦にあったとはいえ、粘り抜けばたたき合いとなり長期の間には幕軍が押し切れる
だが慶喜は闘志満々の幕軍を捨てて大阪から船で帰ってしまった
それはなぜか?天皇を岩倉具視がさらい、かつてありもしなかった「錦の御旗」を掲げたものだから国粋思想天皇崇拝の慶喜は気が重くなってしまったのである。
ちなみにこの錦の御旗は岩倉や西郷の手製で白い布に何となく赤い模様を書いてみたものである。
薩長善戦、慶喜敗走の報により全国大名は一気に勝ち目の出た薩長に呼応しだした。
やがて東征将軍の西郷隆盛をあげて江戸無血開城に至る
それでも、である。ここまで追い詰められた幕軍も本当は最後で大逆転できたといわれています。海軍は榎本武揚や勝海舟に見られるように圧倒的に幕府軍が上。それで勝てたのである。
■超大軍が東海道を上ってくるその時にどのような陣形になっているか?狭い東海道、国道一号を進む官軍の隊列は海から見れば
西から →→→→→→→→→→→→→→ 東へ一直線
(海から)↑ ↑ ↑ ↑ ↑
【艦船】【艦船】【艦船】【艦船】の艦隊艦砲一斉射撃。北が山や丘で逃げられない所に引き寄せてから艦隊が全砲門を東進する官軍の横腹に向けて全開にしたらどうなったであろう?崩れて壊乱する縦列歩兵に対して少なくとも十万の歩兵たる旗本幕府軍。乱れ敗走するところを追尾して切り込んだら?西か東しか逃げ道はなくどちらも艦砲射撃が待ち受けている状態で壊乱する。逃げることもできない。
そして事実としてこの案は慶喜に献策されたのである
しかし慶喜は天皇を要する官軍を攻撃することがどうしてもいやだった。
幼少からの教育である。天照とか神武云々
後世の印象では慶喜の影は薄く西郷が巨大に見えるが
太陽が慶喜であり西郷はそれより何十分の一も小さい惑星にすぎず、全てを決める中心の太陽が勝手に自縄自縛となって引き下がった、と見る視点が正解でありましょう。
ちなみに坂本龍馬は流れ星?
※参考
追記しますと、この時に戦力的に最強とみられていたのは苛烈な洋学志向のがり勉教育藩、鍋島閑叟が率いる肥前でした。大隈重信や江藤新平を育てた藩です。
長崎に近い地の利や刺激があったために装備は西洋の先端にかなり近かった。
大隈重信いわく 「鍋島公の様な寛大な方でなければかんたんに切腹処分であったであろう。予や江藤新平の如きは命がいくつあっても足りなかった」云々
鍋島公は重厚な穏やかな老人であった。この方の動きを全国は緊張して眺めていたが、動かず。
全国の大名が参列した桜の宴。息をのんでみなは鍋島公の言葉に耳を澄ませた。ゆるりと盃を空けながら、自然の雅の話しかせず、何も言わぬまま帰るその背を全員はそれぞれの思いで見つめた。
最強西洋装備の肥前は動かず!と
土佐の山内と肥前の鍋島は心情的に薩長に深く共感はしておらず、慶喜が総理のような形で大名が議員となる構想に当時の大インテリの2人は寄っていた節はありました。
でも慶喜が。。
山内容堂と鍋島閑叟は薩長史観の無理に気づいており、クーデターだと直感していた。
西郷と岩倉は山内がごねたときは暗殺する気でいた。
何かの形で社会に還元します。あるいは次回の無料記事に。でも水準保証の返金付きですから安心して、胸躍らせてどうぞ。