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#003 大学が別のゲームに見えるメタ認知--理系各員に捧ぐ

本シリーズは、①勉強頑張ったら選択肢が増える、②理系かつ高成績の方が選択肢は多い、③選択肢が多いと良い会社に入れて幸せになれるというよくあるお話の②まで頑張ったものの、③は半分嘘であるということに気付いて四苦八苦した私が、理系でよくある罠にハマらないように考えて損のないトピックを書いていくものである。

前回は幸せになりたいなら、まず自分の人生について考える時間を意識的に持った方が良いという話をした。理系は時間がないというのは、本当のようだけど実は嘘で、そもそも時間は自分で作らなければあるはずがない。他人は平気で人の時間を奪うし、奪ってる自覚がない人も多い。そして奪われる側も無自覚だったりする。

前置きが長くなってしまった。今回のテーマは幸せとはなんぞやみたいな大きなテーマを考える際に必須となるメタ化、メタ認知、メタゲームといった概念について触れておきたい。今回お話しする「メタ」は、一歩引くとか視座を高くするとかそんな言葉で代替されると考えると良い。

念のため具体例を話しておきたい。あなたは今、この夏に着る服を買いに来ている。シャツを1枚持っておこうと考えたが、色に悩んでいる。無難でしかも夏らしい白にするか、今夏流行るらしい淡めのブルーにするか。服だけ見ていても決まらないので、「それぞれの服を着た自分を想像して、自分のイメージに合ってるかを確認」する。さて、どっちが似合うかはお任せするとして、このカッコ内は自分を見る自分が登場している。この自分から出て客観的に自分を分析するような認知をメタ認知という。

私がこの考え方に出会ったのは、中学か高校のはじめの頃に外山滋比古先生の『思考の整理学』を読んだときだった。これは名著だし読みやすいし内容は厚いが本は薄いので、読むと良いと思う。この本を読んでから、私の後頭部斜め後ろには、いつも小さな自分がいた。一つ一つの自分の行動を、その小さな自分が観測し、分析を試みていた。怒ったときは何が原因で怒ったのか、相手に殴りかかりそうになったときは相手は何故私を怒らせるようなことをしたのか、小さな自分が常に分析をした。そして、相手が私を怒らせるときは、相手にもその行動をするだけの合理的理由があることを理解することができて、私は自分の怒りを鎮めるということも多々あった。ちなみに酔っぱらうとこの小さな自分は大活躍する。

と、このような感じで私自身、常々このメタ認知に助けられて生きてきた。そして本題。幸せについて考えるとき、まずは自分はどんなとき幸せなのかを自覚する必要がある。この自覚ができるかどうかは、メタ認知の能力にかかっている。自分の幸せな状態を自覚できたら、次は現在の生活はその幸せを獲得する道筋の何処にあるのかを確認する。ここで、衝撃を受けることがある。今の自分の生活は、自分の幸せに全く寄与してない...と気付くことがあるからだ。しかし心配ご無用。自分の幸せをメタ認知できた時点で、あなたは計画的に身の振り方を変えることができるようになった。人生の荒波を乗り越えて航海するためのコンパスを手に入れたのだ。理系が絶対向いてないと感じる人もいるだろう。そういう人は、まず今のまま進んだ場合の未来に行くであろう会社や団体を見に行くべきだ。そこで働く人の生活を知り、自分に当てはめて出来そうなら、今のまま過ごしても良い。ここで無理だと思った人は、今からでも遅くないので方向転換しよう。ただ、方向転換先の未来も先ほどと同様に確認しないといけない。ここの確認を疎かにすると、心機一転大勝負の方向転換をして半年後、こんなはずじゃなかったと嘆くはめになる。方向転換は無限にできないことは、頭に置いておくべきだ。

本題は以上だが、メタを知ると大学の成績が取りやすくなるよという話を余談として書いておきたい。大学はもちろん学び、その知識を運用して理論から出る正しい解までの論述が出来ることが大切だ。学士時代は、その力を見る試験で成績が決まる。これが建前だが、これをメタゲーム化すると先生とのコミュニケーションゲームになる。大学の成績は、国からの学習指導要領がある高校までよりも、先生個人の采配で成績が決まると考えられる。講義内容も専門化すればするほど、その先生の理論世界に入る。したがって、試験も理論を勉強したうえで、論理的に正しいことを書くのは当然だが、それ以上に先生が答えて欲しい答案の書き方で書くことが大事になる。先生方は、いくつ講義を担当されているだろうか?仕事は講義だけだろうか?忙しいとしたらどんな答案を出せば、疲れた採点作業のときに良い心象を与えることができるだろうか?さて、大学の成績はただの学力ゲームの結果だろうか?

メタ化は様々な場面で重要なヒントを得るために役立つツールになってくれる。そして大事なことをもう一つ付け加えると、メタ化は一段階だけではない。思考している枠を一歩出るのが、メタ化のイメージであるけれど、一歩出た先も別の枠で囲まれている場合が多い。そしてその枠が捉えられるかどうかは、その人の知識量や世界の捉え方の柔軟さにかかっている。ここは学ぶしかない。

では、今回はこんなところでおしまい。次回はなまじ論理力が付くために理系が陥りがちな他責マインドについて書く予定。力は道徳と共に身に付けないと、我が身を滅ぼすのである。

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