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働くことにまつわる戯言2023

「なんでkmr3は働くんですか?」と同僚に問われた。特に迷いもなく「頭の働きを止めたくないから。」と答える。お金、とか、好きなものを食べたい、とかそういうのが返ってくると思ってたらしい同僚は一瞬😮こんな感じになっていたが、「あああああそれkmr3ぽいぽい!」と一人で盛り上がり立ち去っていった。
確かに、なんで働いてるんだろう、と思うネガティブなことは2023年もたくさんあった。だけど結局、そのネガティブな状況も働いてないと発生しないし、その状況下で自分が何を考え行動に移すかは、働いているからこその時間と学びだ。
また来年も同じことを思うのかもしれないけど、ひとまず2023年の勝手なつぶやきとして。

転職の誘いからプライドに気づく

年明け、共通の知人がいる現職の先輩から、その知人と働いてみる気はあるかと言われる。彼の部下になると思うけど、仕事内容的に未知だし挑戦的だからkmr3に合うんじゃないのと。
まったくのなしではなかったので、知人と先輩とまず3人で会い、その後知人の上長ともお会いした。実質の面談だ。結果的に自分の今の状況を鑑みて断ったのだが、この誘いをきっかけに、自分が働く上でどういったスタイルやポリシーを持つのか改めて考えるようになった。

20代30代の頃は、金曜の夜にどんなに仕事が滞っていようが、土日でガッと片付けて月曜を迎えることが別に嫌ではなかった。土日に予定が入っていても、朝昼晩で1日を3分割し、分割をまたぐ予定を変更して仕事の時間を確保する感じだ。一緒に過ごす相手にとってはまぁひどいことをしていたと思う。
土日までやるほど仕事が好きというより、ゴールを見つける試行錯誤の時間と、ゴールした時の清々しさが好き、まぁそれはイコール「仕事が好き」なのかもしれないけど、日常生活の他ではあまりない感覚を得られることに心酔していたと思う。

時は経ち40代になると、なのかマネジメントをするようになってから、なのかわからないが土日は仕事を遮断している。月曜がどんなに大変になるとわかっていても、ノートPCがバッグの中に入っていても、そのまま月曜を迎える。
平日の切れ間ない会議や誰かとのテキストを含む会話は、知らないうちに自身の力を使い果たし消耗へと誘う。強制オフラインにしないとこれ以上の力が出せないという、ある意味生命の危機にも似た感覚が週の後半になるにつれて強くなる。力、というのは思考、言葉を選ぶ、思いを込めるといった、仕事で必要な「相手に伝えたいことを伝える」ためのプロセス全てにかかる。
冒頭の同僚の何気ない質問、「なんでkmr3は働くんですか?」に対する私の回答に戻る。「頭の働きを止めたくないから。」でも結局、24時間365日頭を働かせるのは嫌なんだよな。それは私の力を消耗させてしまう。

ということはつまり、思考、言葉を選ぶ、思いを込めるということに力を注がなければ、適当に平日の勤務時間を流すこともできて嫌な思いや消耗もしないわけだ。だけどそれはしない。というかそれやったら仕事じゃなくない?ってのが自分の働く上での流儀というか、小さいプライドなんだろう。

職場における「多様性」は逃げの面もあると思う

国籍、性差、家庭事情や身体的な制約、物理的な距離があるなどの個々の背景の話ではなく、コミュニケーションとマインドの領域としての「多様性」という言葉が苦手だ。何でも入れていい箱、みたいな感じになっている。この言葉で表さず、具体について適した言葉と言葉の数で表現すればいいのにと思う。
正しく伝える意思がないからこの言葉に逃げているんじゃないかなと感じることは多い。いや、意思はあるけど伝えるには結構な労力が必要だから、その労力をかけてまで(自分が磨耗することもあるから)ってことの方が大きいのかも。

多様性その1:コミュニケーション下手
発言ベタだったり話すつもりのない(単に勇気がないだけのこともあれば、そもそも話す必要性を感じていない場合もある)人も、もちろん大事な仕事仲間だ。
彼らに共通するのは「うまく言葉にできなかったりその場ではいい言葉が見つからず発言できなかった、でも思っていることがある」なので、いかに引き出すかが重要だ。
ただ引き出す活動に力を入れ続ける側も疲れるし、そうしなくても話が進むメンバーの方が楽なので、迷いがありつつ重用の偏りは当然生まれる。
引き出す側の努力や葛藤。発言できない/しない側の意向。双方の立場があるよねという理解のもとの多様性ならいいが、どうしても後者の不満としての多様性に重みが置かれることが多い気がする。
その時でなくとも、テキストでいいから頭の中を外に出してくれ、考えていることを見えるようにしてくれ、と引き出す側としてはつい思ってしまう。というぼやき。

多様性その2:フリーライダー、責任を取りたくないが給与は上げたい人
管理職にはなりたくない、メンバーを持ちたくないが給与は上げたい、という主張。アサインもそこまで埋まっていないので、ちょっと手伝ってほしいと打診すると、忙しいから無理と断られる。会社組織に所属している以上、職務を果たす必要はあるものの、自身のポリシーというかそれは単なるわがままではないかと感じるレベルの主張を当然のように押しつける。ただただ図太い。
働かざる者食うべからず、と思ってしまうが、それもひとつの生き方なのだ、多様性という世界では。

勉強と肌感

業種上、新しい技術や概念も日々生まれ、使いこなしたり活かしたり発展させる方法を考えるには勉強が必要だと思ってやってきた。同世代は氷河期っ子だからか、比較的そういう思想が多い。
働き始めた頃まだGoogle先生はいなかったので、先輩同僚から情報収集をしたり、書籍や論文を掲示板経由で教えてもらったり、実際人に会ったり勉強会へ赴くことが当たり前だった。そして学習したことは結局活かせなかったり忘れてしまい、無駄にした時間もいくらかあった。

今はそうじゃないよ、と同僚が言う。新しい(プログラミング)言語が海のものとも山のものともつかない期間に、それを学ぶことはリスクだと考えるのが主流、先行者利益の概念は消えているらしい。誰かが踏んでいるから大丈夫という獣道的な粒度ではまだ勉強の動機にはならず、目的地へ通じる証拠と舗装がなされてからようやく道へ足を踏み入れるそうだ。彼らはキャリアとなる確実性をコスパ良く求めたいのだ。

勉強って、ためにならないこともあったなと思えるにはひとまずかじってみないといけないんじゃないか。有象無象やってみて選別する目を養わないと、それが無象と判断できないし、肌感なんて一生つかないと思うけどな。と書いたところで、だから若手が何かと肌感を聞いてくるんだと思い当たる。

俺たちの深夜残業という思い出

もう完全にハラスメント話題と化した深夜残業。だけどあの時間がなかったら、たぶん自分は今これだけのマルチタスク対応と業務量遂行と判断スピードとストレス耐性を持たなかったとも思う。それは深夜残業じゃないところで手に入ったかもしれないが、その場合はまた違う仕事観や遂行能力になっているだろう。
わからないからいろいろ調べて試していたら1日経ってしまい、結果のアウトプットを夜作ることになる。その中で、調べる、試すをもっと次効率よくするにはという反省も繰り返していて、だんだん自分なりの勘所がわかり技術として身についていくる。身につく、というのがたぶん重要で、ここが個人としてステップアップするかどうかなんだろう。まぁ私の場合は勘所がなかなかわからず、結果時間がかかってしまっている部分も多かったけど。

私にとっての深夜残業は何らかを「身につける」時間で、今の基礎体力になっている。守破離で言う守。
という話を先輩としていると、今のメンバーはほぼ残業のない環境で働いているけど、彼らはじゃあどうやって守を自分の感覚として身につけるんだろう、と先輩が言った。業務時間の中でつくんじゃ、と思ったがそうでもないらしい。となると、さっきの肌感を聞いてくる若手じゃないけど、ずっと誰かに聞き続けるか数年かけてじゃないですかという話になり、完全にコスパ思想とは逆行しているよなという訳のわからない結末になった。

ワークライフバランスのバランスとは別に均衡ではない

・責任を取りたくない=責任は職場のストレスの大きな要因だから、自分の人生からは取り除きたい。
・勉強しながらのプロジェクトは嫌だ=時間がかかるし勉強を業務外でもやらないといけない。でもその勉強が次に役立つ確証はない。
・残業は無理=プライベートの時間を確保するのは個人の権利だ。

仕事に関わる時間を極力最小限にすることで、ライフとのバランスがはじめてとれる人もいる。

まぁ、1日のうち8hほど拘束する会社という仕組みは、ある意味非道だと思う。そしてその中で受けるストレスは大小さまざま、面倒なことも多い。だけど所属しようと門を叩いたのはあなただということを忘れていないか?
プライベートを優先するのは構わないけど、職務職責を果たす前提での優先であり、そこを蔑ろにしてしまってはバランスが取れないよなぁと思うものの、均衡をとる必要はないので重みをプライベートに置くのも自由。ただモヤっとするだけの話。

2023年もよく働いたな。

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