ランキングまとめとロールモデル要望の背景に見えるコスパ思想に関する私見
ランキングまとめ徒然
絶景。カフェ。iPhoneケース。100均で買える便利グッズ。ユニクロの新作。
世の中にはランキングやnn選というまとめが溢れていて、溢れているってことは一定の需要があるんだろう。
レビューによるお店や商品の格付け、古くはセレクトショップなるものも存在するし、目利きする側が民衆化した結果の溢れ具合が今、と言う方が現実に即しているのかもしれない。
私も仕事上の調べ物は、ある程度まとめてもらっていると、最初のリーチで見るポイントが絞られる(まとめがない頃はひとつひとつ探さないといけなかったので、自分の想定範囲外のものへたどり着くことが少なかった)からショートカットとして重宝している。それに、まとめから外れているものに気づきやすくなることで、外れている理由、つまりまとめ対象と外れ対象との違いに早く気づくことができて、観点を増やすことに役立つ。
ランキングまとめはコスパ思想の結晶だなぁ、とずっと感じている。いいか悪いかは別として、なんでもコスパ重視の風潮が可視化されているのがランキングまとめ。
失敗する時間とお金と自分の心の機微がもったいない。1ミリたりとも損はしたくない。先達がうまくいった、いい思いをしているなら、自分も余計な道にそれず既存のルートに乗っていい時間とお金の使い方をしたい。
人生は短いので当然のことだし、世の中が不安定な分、自らの手の届く範囲を限りなく安定感あるものにしたい欲望は誰しもが持つ。
なんだけど、そこには自らの「好き」や「いいな」の生々しい感情が根本的に欠如している気がして、人間のみが持つとされるその感情よりもコスパを優先するって、人類であることの放棄に等しくない?とたまに憤ってしまう。
あるいは、以前何度か経験したのだけど、紹介したお店に行った人から「臨時休業だったんだけどなんで?」「全然(お店の人に)気にかけてもらえなかった」とお叱りを受けた。私は単にお店を紹介したにすぎない。ただ紹介された側は、長年通ってようやく構築できたお店と私との関係性までを紹介の範囲に含めていたのだ。これって結構なコスパ思想だなぁと、その時強く思った。
こちらは(時間的にもお金的にも)いくつもの失敗を含めて長期にわたる活動の結果築いたものがあり、受け取る側はそれが最初から用意されるべきだと考える。人は皆自分を大事にされたいだろうからしょうがないけど、哀しくはなる。
ロールモデル徒然
もうひとつ、ロールモデルもコスパ思想に近づきつつあるよなぁと最近ふと思った。
「ロールモデルとなる人がいない」という若手の退職理由は、自分の勤め先以外でもよく聞く話だ。気持ちはすごくわかる。んだけど、特定の「あの人がロールモデル」という人物って、どこの会社でももうほとんど生息していないと思う。ただし、あの人のこの部分、その人のこの部分、というように、場面やスキルなど文脈を絞って捉えると、結構なものが得られる。
「ロールモデルとなる人がいない」のは、「この人たちではない誰か」を求めているからだ。ただ自らは「この人たちではない誰か」になる選択肢を持たない。これまでに会った人々から得た学びパーツをコラージュすることで、「この人たちではない誰か」をつくることができるにもかかわらず。それは別に実在の人物に限らず、本の中だったり映画の中だったりもするけれど、若手ゆえの視野だからか会社の中だけにフォーカスしてしまう(自分も20代でそういうタイミングがあった)。
自分のことだけど、どこか他人へ責任を委ねているのが透けて見える気がする。あるいは「この人たちではない誰か」がつくれることを本当に知らないのか。
後者なら、それを教えてこなかった私を含む年長者の怠慢だし、今からでも遅くはないから伝える必要がある。
ただ前者なら、それは人生設計がコスパ思想一色に彩られようとしている予兆のような気がしてならない。
ところで年長者はロールモデルになろうとしないのか?という別の疑問も生まれるけれど、良くも悪くもロールモデルを持たずに働いてきた(特に私のような氷河期世代は、諸先輩方と働く意味の見出し方が大きく異なる部分もあり、違う人種と割り切る必要が一部あった)&自身の世界観が(加齢とともに)硬直を見せる人々に対しては若干酷な話だし、そもそも若手は今いる年長者がロールモデルになったところでそれをロールモデルとはみなさないと思う。
コスパ思想で生まれた余剰
ランキングまとめで情報収集をした結果、そこで浮いたはずの、失敗や損に回っていた時間やお金はどこにいっているのだろう。まぁお金に関してはそもそものパイが少なくなっているからとして、気になるのは時間だ。皆に平等に与えられている365日。その中でコスパ思想により生まれた余剰は、何を生み出しているのか気になる。
蛇足:
ランキングまとめなどでよくある「いかがでしたでしょうか?」で終わる文章、あれどうにかならないのかしら。
取材や調査して書いたんでしょ?なぜ自信がないの?ここまで主張をさんざん読ませておいて、急に読み手のご機嫌をうかがうポーズをとることで、サッと他人事にすり替えている気がしてならない。でもきっと、委ねること、どう感じるかを聞いておくことが「共感」として変換される世の中になったのでしょう。
誰でも書き手になりうる、そして実際に足を運ばなくても情報の拾い読みと再構築によるアウトプット(ぽいものの掲出)が可能になった今だから、防波堤としてのご機嫌とりも必要なのかしらと思った次第。
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