自尊心という甘え

私の中での私の悩みは全て、「自尊心の欠如」という言葉で片付けてしまえば解決してしまうものばかりだ。

酔いの中でも
・うまくいきそうになると逃げてしまう
・自分に嫌気が差している状態をある種当たり前のように思っている
・昔のことを思い出して、部屋の中で突然「ウワー!」と奇声を発する
・なんだか全体的に自分のことを恥ずかしい存在だと認識している

こんなに思い浮かぶ。

そしてそれらは全て、自尊心の低さからくるものではないか、と思うし、そうでなければ困るという、自分の中の変化をあらゆる病気に当てはめて安心してしまう現象と似ている気がする。

これを久々に考えて、また自分が恥ずかしい存在のように思っている現在進行形のネガティブ。

でもよく考えてみろ?私


「自尊心の低さからくるものだ、そしてそれは私の心の弱さからくるものだ」という思い込み?自虐?って、うつ病の人に「頑張れ!生活習慣を正せば治る!!」と元気な人に言われている状態を自分で作り出しているということでは?

私はそういう人が大嫌いだ。いやそこまで嫌いじゃないけど、「なんか、はい、そうですよねぇ、、ウフフ(それで治るなら警察要りません)」と心の中で悪態をついてしまう。


大人になっても自尊心の低い人というのは、なにか自分の中の大きなものを何度か否定され続けた人だと思うし(自分の解釈)、それを表面上では消化して何とか上手くやっている人でも、深層の部分ではいつも他人の評価を気にして、ビクビクしているんじゃないのかしら。ちな私はそう。


って何だか悟りの30億歩手前のようなことを書いたけれど、


自尊心の低さとは全く関係のないところで、楽しめることはあるし、楽しいというほどの感情には至らなくても、「ふうん」と思うくらいのちょっと血を吸いすぎた蚊を見た時くらいのギリ感情、いや感想、無意識下での出来事を見た時の視線の動き。

それら自尊心、関係ありますか?

なくない?

そしてそれらって、あなたの、私の、性格とか人生観とかを決定づけるほとんどのことだと思う。

たまにビルの隙間の空を見て思う。なんか懐かしいなって思う。なんも懐かしくないのに思う。それは寂しさをかなり含有している。

たまにすごく人と接したくなる。その時人に接している私は完全に馬鹿で喧嘩腰で博愛主義で、「やってしまいましたさようならーーー!!もう誰とも会えませんさようならーーー!!」と豆乳をグラスに注ぎつつ叫ぶ翌朝があっても、また次に会った同じ人たちは「真顔でタクシーで帰ってたよ」と言う。


やらかしてないのだ。意外に。
やらかしをあまり思えてないのだ人びとは意外に。


何百回もそれを経験してきたはずだけれど、最近ようやく「自尊心の低さ」と「それから派生する様々なやらかし、もしくは憂鬱」の頻度が減ってきたような気がする。


大人になったということかしら。
それはそれで寂しいような気もする。


うまくまとめたように思うが、これは嵐の前の静けさであることも知っている。


つらつらとなに書いとるんやという感じだが、つまりなにが言いたいのかというと、
「甘えという言葉は私は大嫌い」
ということなのではないか。


もちろんガチの甘えはある。それは自分で分別がつく。
でも生まれ持ったことだったり、生活するための必要最低限のことごとからはみ出たものだったりの中のネガティブは、甘えじゃないと思う。


っていう自分への鼓舞。

おやすみなさい。


この記事が参加している募集

眠れない夜に

ほろ酔い文学

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?