「本能」や「性」の強要で生きづらさを感じている。

※結論はありません。自分の考えをアウトプットし、そしてそれを後々自分にインプットするためのメモでもあります。
物書きではないので、日本語がおかしいかもしれませんがご容赦ください。


私は、母に「母性」というものを感じたことが、あまりない。
母には、「母である前に一個人である」ということを強く感じていた。

「母性」というものは、「子供が生まれた日や、子供ができたと気が付いた瞬間に、突然沸き上がりその後消えることなく常に持っているもの」
ではないのだということに気が付くのに、そう時間はかからなかった。
それを体現している母が、身近にいたからだ。
その感覚を、持っている人もいるし、持っていない人もいる。
また、持っている瞬間もあるし、持っていない瞬間もある。

でも女性は、子供を身に宿したとき「子供を身ごもった個人」ではなく、「母」というテンプレート的な役割を与えられ、
「子供や小さいものを無条件で愛おしいと思う」いわゆる世間一般のいう「母性」を当たり前のように求められる。

そういった場面を見ることは、男性に対する「父性」の強要よりも、女性に対する「母性」の強要のほうが俄然多い。
何なら、子供を生んだことがいなくても、「母性」を強要されたり「あなたも母性をもってるしょう?」を決めつけを受けたりすることもある。

そもそも、「母性」とは、なんなのか。
「母性本能」という言葉があるが、
種として、自分の遺伝子をより良い状態で存続させていくために、子供が庇護を必要としなくなるまでの面倒をみる「子育て」や、
時には、自分の命までをもなげうってしまう「子供に対する自己犠牲」が「本能」としてあるのは理解できる。
でもそれは、あくまで「本能」であり、「心からそう思い行動しなければならない」というわけでも、
「他の本能や理性的な考えをなげうってまでしなければならない事」というわけでもないと思う。

私たちは、決して「本能」だけで生きているわけではない。
「理性」と「社会性」を持ち、発展した文化・文明の中で生きている人間という生き物なのだから。

文明・文化社会が発展すると、「本能」というものはどんどん「理性」に抑えられていくのだと思う。
「理性的」になるという選択をすることで、人類は、コミュニティを作り、活動域を広げて地球生物の覇権をとることができた。

その流れ、社会の構築の中で、
「お腹がすいたからといって、積極的に他者の食料を奪うこと」や、
「快楽や、より良い遺伝子を残したいという一方的な欲求のために、積極的に合意なしであろうと性交渉を行うこと」
が嫌悪され、もし「本能」として沸き上がったとしても、「理性的に抑えられるべき本能」である、とされて来たのだと思う。

その「本能」が「理性」抑えられる流れになったとき、「なんで?!」と思った個もいたことだろうと思う。
「本能のまま、奪い、犯す。それが当たり前なのに!!」って。

でも、結局、この二例に対する、「本能のまま生きること」と「本能を理性で抑えること」の勝敗は、後者勝利の流れができていると思う。

前者を「良いことだ!積極的にやっていくべき!!」と声高にいい、実行し、他者にも強要する人は、文化・文明から弾き出される現状がある。

本能で生きる動物から、社会性を築き、文化を持つ「人」に変化していくことを、「進化」と呼ぶならば、それは「退化」だと思う。

「自分の利のためだけに、他者のもつもの(権利や主張や思考)を奪うことを実行すること」は、「危険因子」になる。
同じく「なんで?!」って思った人が大勢いたのでしょう。
「そんなことしても、全然有益じゃない!進化していけないじゃん!」って。

前記の二例に対しては、「そんな本能が沸くことがない」人もいれば、
「そういう本能は沸くけれども理性で抑えている」人もいるでしょう。
でも、現状社会から「自分の利のためだけに、他者のもつもの(権利や主張や思考)を奪うことを実行すること」を強要されることもない。

「お腹がすいているのならば、他者から食糧を奪うべきだ」とも、
「種の一員として自分の遺伝子を存続させたいのなら、異性を襲え」とも。
(宗教・思想など、属するコミュニティで例外はあるとは思うけれど。)

子供は庇護を求め、庇護者に「母性」を求める。
それは種として生存競争に生き残るための、子供の「本能」だと思う。

特に思考に「理性」の領域が、まだまだ狭い子供のころは、
「本能」に傾くことも多いだろうとも思う。

それに対して、社会性と理性をもち、一人の人間として生きている親は、
子供に促され「母性本能」がわきあがるのか。
そもそも、わきあがるものなのか。
そしてわきあがったとして、その「本能」に従うのか、わきあがった「母性本能」が世間一般のいう「母性」と同じもなのか。

なぜ、「母性本能」という「本能」は、
強要される・された、と思う人がいるのでしょうか。

「母親なら女性なら、無条件に愛し命を懸けて守るべき」だと「母性」という曖昧で便利な言葉を使い、
「自分の利や欲のためだけに、他者の持つモノ(権利や主張や思考)を奪うことを実行すること」を、する人がいるのでしょう。

ここでいう、「自分の利や欲」とは、物理的なことだけでなく、「自己流の正義で相手を屈服させる支配欲求」や、「自分は間違ってないと主張することによる承認欲求」や、「自分のイライラをとにかく発散したい欲求」とかを満たすことも含まれるでしょう。
意識的にも、無意識的にも起こりうる欲求です。

うーん。
こうなってしまうのは、「自分の考えが間違っているかもしれないという考えを微塵も持たない視野の狭さ」と、
「自分が人の権利を奪っているという自覚のなさ」が原因の一つでしょうか。

「あれ?これって、強要されることじゃなくない?!そんなことを意識的・無意識的に強要して、自分の欲や利を求めてるんじゃない?」
と気づいたときに、変化が起こる。
そしてそういう人が、「危険因子」となり、排除されるのか、大多数の意見としてスタンダードになっていくのか。

社会性を持つ生物としての人類は、まだまだ成熟に向けて変化の最中なのでしょうね。

「母性」だけの問題ではない。
「父性」だって。「年齢」「体の性」「心の性」「趣向」「障害」「病気」。
自分もいつ、違和感を感じるかわかりませんもの。

「自分の考え・行動が、間違っているかもしれない。唯一の正解というわけではないかもしれない」という考え、大事。
冷静さを欠くと忘れてしまいがちだから、忘れないようにしなければ。

考えることを完全にやめてしまった人間は、自我を捨てて何もかもあきらめ誰かに従い奪われ続けるか、自我しか持たない動物になるか。
その二択に行き着いてしまうような気がするから。
そのどちらの結果も、私は良しとしていないから。

文字を書くのには慣れていないので、読みにくかったらごめんなさい。読んでくれてありがとう!