毎日淡々とnoteが書けるようになったのは、遺書のつもりで書いているからかもしれない。
メンバーシップにも参加させてもらっていて、いつも「書くこと」に関して学びや気づきをたくさんいただいていることばと広告さん。
こちらの記事にすごく共感しました。
ほんとにそうですよね。
どこまでいっても邪魔をするのは「人からどう見られるか」っていう自意識。
でも毎回「遺書」のつもりで書こうって思ったら、そんなのどうでもよくなりませんか?
とはいいつつ、若いころは「そんなのどうでもいい!」ってなれない気持ちも分かります。
わたし自身も30代まで自意識にとらわれまくっていたので…
今、200日連続でnoteを更新しているのですが、noteをはじめた頃に
「100日更新するぞ!」
と意気込んでがんばっていた頃とはまったく意識がちがっていて。
まさに「遺書のつもりで書いている」から、毎日淡々と書けているのかもしれません。
20代のころは、永遠に毎日がつづくような気がしていた。
だから「⚪︎⚪︎日続ける!」みたいな数字に意識が向いていたように思う。
だけど今は、終わりに向かって歩いている感覚というか。
いつ終わりを迎えてもいいように、後悔しないために書き続けてる。
どちらも「続ける」という行動は変わらないけれど、その動機はまったく別ものだ。
たんに続けるための行動なのか、いつ終わりを迎えても後悔しないための行動なのか。
40歳をむかえてから、より「遺書のように書こう」という意識が強くなったのを感じている。
正直、自分の文章のヘタさ加減に嫌気がさすこともある。
本やnoteで才能あふれる人たちの文章を読んでは、嫉妬したり絶望することもある。
でも、わたしの文章のセンスは凡人だと知っている。
自分にそもそも期待していない。
だけど、内側には伝えたいメッセージが溢れてる。
世のため人のためになるなら、自分の智慧すべてを言葉にして伝えたい。
だからわたしには、自意識に囚われている暇なんてない。
1000本ノックのように、ひたすら書きつづけるだけ。
昨日より今日、今日より明日。
ほんの1ミリでも成長していると信じて。
だれかにわたしの言葉が届くと信じて。
追伸。
遺書のつもりで…とはいいつつも、本人は100歳になってもバリバリ元気に書き続けるつもりでいますけどね。(笑)
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