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関西人の一表現者が考える、イジるとイジられについて

最近のことだが、友人にnoteのアカウントを教えてと言われた。
でも、渋ってしまった。

「えー、気恥ずかしいし、知り合いにもあまり教えてないし」

もちろん私のリアルな知人友人の中にはnoteを読んでいる人もいる。
その人たちはSNSでつながっているから、たまに見ることもあるのだ。
それをいいと思うか、悪いと思うか、無関心か、など受け取り方は別々だと思うが。

その友人はというと、フェイスブックのような実名のもの以外のSNSで繋がっておらず、
私がSNSで垂れ流しているような情報に触れていない。

その友人とは付き合いが長い。
それこそSNSが流行りだすより前からの付き合いだ。

そんな旧友なのに、
なぜ私が渋っているのか。
それは、このnoteを見て、笑われたり、引かれたりするのが嫌と思ったからだ。

そんなん、もはや友人やないやんというツッコミがきそうだけど、ちょっと待って。

ここで「イジるとイジられの関係性の難しさ」について語りたい。

関西圏の人たちを中心に馴染みがあると思うけど、
「笑い」には「イジる人」と「イジられる人」があって成り立つことも多い。
漫才ならば「ツッコミ」と「ボケ」のイメージ

イジられる例として
・ドジっ子キャラ
・天然キャラ
・お調子者キャラ
・モテないキャラ
・おバカキャラ

イジられる側は「キャラ」として素材を提供し、イジる側はその素材を美味しく料理するという構図になる。

イジられ側は素材で
イジる側は料理人だ。

素材をいい感じに切って、味付けすれば美味しくなるけれど、
素材を切り刻んで、乱暴に扱うとまずくなる。

イジる人とイジられる人とで信頼関係がないと成り立たない。
このイジるとイジられるは案外力加減が難しい。
お笑い芸人などプロとしてやっている人は力加減をわかっているから、あんなにも笑いを量産できるけど
力加減をわかっていないと、下手をすれば、イジリはイジメにもなってしまう。

難しいからこそ
イジられ側の人間は、素材として提供できるものだけを料理人に渡すし
イジる側の人間は、うまく料理できる素材だけ選んで料理する必要がある。


最近、某ベテラン芸人のラジオでの女性蔑視発言が問題になっている。
ここで私が取り上げたいのは、その女性蔑視発言そのものではない。
その某ベテラン芸人と公開説教した相方の関係性について注目してみたい。

私は、問題の女性蔑視発言も、それに対する相方の公開説教も、生のラジオで聞いたわけではない。
私が目にしたのは、その公開説教の一部を記載しているニュース記事だった。
だから、詳細をちゃんとわかっているのかと追及しないでほしいのだが、
かいつまんでみたコメントはなかなか辛辣だった。
女性蔑視発言だけでなく、人間性そのものを厳しく断罪するものだった。

相方のためを思って、あえて辛辣にしているという見解もあったけれど、そのエピソードの具体性から、嘘偽りない、厳しい本音だったのだろうと思う。

私が衝撃を受けたのは
何十年にもわたってコンビを組んでいて、何の遠慮もなくツッコミ、ツッコまれをしていた間柄であっただろうに
なかなか辛辣な本音を秘めていたということだ。それが結構本質的なことだという深刻さだ。

本当は言いたいけれど、言ってしまったら、何かが変わってしまうという恐れがあったのかなあと感じる。

旧友の話に戻る。
私はイジられ側で、旧友はイジる側で、これまでずっとやってきている。
私は素材を提供し、旧友はそれを美味しく料理して笑いにする。そしてその笑いを仲間内で食らうのだ。
「ほんま○○は、あほやな」
「そんな夢見がちやから、現実見えてへんねて」
「え、引くわー笑」
「そんなんやから、モテへんねて」

少々辛口に聞こえるツッコミも文脈によっては、いい笑いのスパイスになる。関西人にとって「笑い」は大切なものだし、イジられて「笑い」に昇華されて救われることもある。

しかし、
はい、お好きにどうぞと、まな板の上に投げ出せないものがある。
それが、本質的なもの、また本質に迫ろうとする切実なもの
つまり、それは作品だ。

そして私にとって、
小説や文章がその作品にあたる。

作品はもはや素材じゃない。
作者が丹精を込めて、手間暇をかけてつくったものだ

私が旧友にアカウントを教えることによってイメージしたのは
脊髄反射のように笑いのネタにすべくイジっているイメージだ。

もちろん
好みの問題もあるし、共感できるできないの問題があるから、気に入らないのなら興味の対象外にし、個人的な感想として留めておいたらいい。
しかし、作品に対峙するには
作者に対する敬意と、最低限の礼儀があってほしいなと思う。
丹精込めた作った作品を笑いのネタとして、昇華され消費されるのは嫌なのだと思う。

作品は作者が完成させたものであって、
それを、笑いとして粗雑に扱われると傷ついてしまうだろう。

しかし、料理人は目新しい素材を見つけたら、料理をしたくなるだろうとも思う。
イジることで笑いをつくることへの探求心も知っている。

だから悩ましい。


某ベテラン芸人への公開説教では、辛辣な言葉だけでなく、
相方のお笑いのカリスマ性とそれまでのキャリアへの敬意も述べていた。
誰よりも身近にいたからこそ、尊敬できる部分や好きな部分があったと思う。
だからこそ、
これ以上、嫌な部分を見て、嫌いになりたくないから、楽屋を別々にしてもらうなど、距離をとるようにしたと言っていた。
身近で尊敬もしている相方だからこそ、深い部分で嫌いたくはない。
だから、ほんまはこんな辛辣な説教なんてしたくなかったと。

なるほどなと思う。そして、なんかわかるなと共感した。

私は旧友のツッコミの切れ味のよさと、その面白さを知っている。
でも、それは私が許した素材だからだ。
それが、作品だと話は別になるだろう。

多分、文章の上手い下手じゃなく
その作品をつくるにあたっての本質的な感性をバカにされたり
血肉となった経験や背景を笑われたりしたら
私はそれを簡単に受け流すことなんてできないだろうし、その旧友を嫌ってしまうだろう。

「よーそんなん書くわ」
「自意識過剰なんちゃうん」
「だから現実見えてへんねて」
「それは勘違いやて」
とか言われたら、たぶん耐え難い。
何かを言われても痛くもかゆくもないような距離感の人間ならまだスルーすればいい。
でも長い付き合いで仲良くやってきた人間にそんな感情を持ちたくはない。

そんなことになりたくないから
私はしばらくこのアカウントを明かさないだろうなと思う。

もしいつか明かすことになる場合は
事情を丁寧に話して、地雷を踏まないようにと旧友に伝えるだろう。
と、同時に私も相手の地雷を踏まないようにしなければならないだろう。


イジる、イジられるというのはお手軽で便利に使われがちだけど
お気をつけて。

関西人だけど、イジるイジられるの危うさを考える今日このごろなのです。





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