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はた迷惑なパリピだったおじいちゃん

去年の年末、おじいちゃんが亡くなった。真面目な人が多い私の親族の中では、一番私に性格が似ているなぁと思う人だった。いろいろあったので、正直好きだったのか、亡くなったことが悲しいのか、自分でもよく分からない。そういう、一筋縄ではいかない人だった。

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おじいちゃんは、8人兄弟の末っ子で、陽気でやんちゃで気分屋で、楽しいことが大好きな人だった。私が高校生になるくらいまでは、毎日毎日晩酌時にウィスキーを飲んでいて、おばあちゃんに飲み過ぎを心配されても、「もうちょっと」「あと一杯」とふざけては飲んで、やっと晩酌の時間が終わったかと思えば、気づけば家からいなくなって、夜の街に繰り出していた。
夜中に、おじいちゃんが家の外で陽気にタクシーの運転手とやりとりする大声で目が覚めたことは、一度や二度ではないと思う。寝ている孫を起こすなと思うし、よくお酒で失敗して家族にあきれられていた。

おじいちゃんはミーハーだったらしく、手提げ型の元祖携帯電話を持っていたらしい。地元では珍しかったため、目立っていたそうだ。私が小学生のときにはガラケーを持ち始めたものの、細かい操作は煩わしかったようで、私によく電話帳の登録を頼んできた。

機嫌がいいときは冗談ばかり言って、よく遊んでくれたし、車で送り迎えもたくさんしてもらった記憶がある。けれど一度気分を害すと大声で怒鳴り散らしたりして、そのたび食卓は全員がビクビクし、静まり返った。そんなことがしょっちゅうあって、幼い頃の私にはかなり苦痛だった。「何様なんだこの人は」と、毎度思っていた。

ある日私がおじいちゃんと一緒に、友人宅に遊びに行った弟を車で迎えにいったとき、おじいちゃんが気まずそうな顔で「(弟を)呼びに行ってくれ」と頼んできたことがあった。ただピンポンを押して、「○○を迎えに来ました」と言うだけのことなのに。暴君だから、他人が作った城に後から入っていくのは苦手だったのだろうか。ふだんはとても社交的だから意外で、よく覚えている。どこまでも素直ゆえに、こういう極端さがある人だった。

いちばん不可解だったのは、「黒作り」のことだ。
「黒作り」は、イカの塩辛にイカスミをまぜた富山の郷土料理のことで、おじいちゃんはなぜかこの黒作りを異常なほど毛嫌いしていた。どのくらい嫌いだったかというと、家族が黒作りを食べることはおろか、黒作り自体を目にしたり、名前を聞くと怒り出すほどだった。とにかく存在を思い出したくない、そんなことさせるのは許せないという感じだった。地雷だ。だからうちでは、おじいちゃんが不在の日には必ず黒作りを買ってきて、こっそり食べるという風習があった。

おじいちゃんに黒作りの存在を思い出させてはいけないわけだから、なぜそんなに嫌いなのかを家族の誰も聞けなかった。60年余り連れ添ったおばあちゃんすら、理由を知らない。単なる好き嫌いにどんだけ家族を巻き込むんだよ、何様だよ、とは思う。けれど、やっぱり極端すぎて、今となっては笑えてくる。

おじいちゃんは、常にやりたいようにやっている感じがあって、「家族なんだからこうするべき」「お姉ちゃんなんだから」「この家の娘なんだから」といった期待を私にかけてきたことがなくて、それがとてもとても気楽だった。自分の毎日に満足している感じがヨボヨボになってもあったから、いい意味で放っておくことができたというか、会うにしろ会わないにしろ、気が重くなることはなかった。

家族というコミュニティに否応なく参加させられる子どもの立場としては、とてもありがたいスタンスだったなぁと思う。いつか私が子どもを育てることになったら、変な期待をかけずに済むように、おじいちゃんのように毎日を楽しく生きようと思う。今から楽しいことを見つけておかなくちゃなぁ。

おじいちゃんはお酒が大好きだったけど、私が成人した頃にはもうあまり飲まなくなっていたし、私は下戸なので、ついにおじいちゃんと乾杯することはなかった。ノンアルでもいいから一緒に飲めたら、めちゃくちゃ喜んだだろうなぁと一瞬思ったけど、やっぱり家では一緒に飲みたくない。酔ったおじいちゃんはうるさすぎた。

旅行先の飲み屋とかで出会って、小1時間くらい飲むのが一番楽しそうな相手だよあなたは。それくらいなら、してあげてもいいよ。

すっっっっっごいうれしい!