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妄想とは恐怖も喜びも作り出す


今日は、妄想、ということについて書いてみる。


前の投稿にも書いたが、見えないもの、恐怖、不安、それらは自ら作り出す

有りもしない創造物、だということ。

つまりは妄想。

例えば恋人がいたとしよう。

愛してくれるといってくれていたとしよう。

そこには一ミリの偽りはない。

しかし、アナタの心に、彼、彼女、を疑う気持ちがあったら何がおきよう?

相手を疑うがあまりに、相手を窮屈にする言動をとる。

それが、結果、偽りのなかった愛さえも、相手に窮屈さを与え、

結果、偽りのない愛さえも、消してしまうという結果を導く。

それは相手のせいでもなんでもない。あなたのせいだ。自分のせいだ。

己の心で勝手に作り出す、恐怖や不安という名の妄想。

それが現実を作り出す、とういこと。

これはあくまでも恋愛をだした一例だが、どうであろうか?

実生活の中でも当てはまることが多々あるのではないだろうか。

本当はその愛を受け入れたい、愛し合いたい、しかし逆の疑いの妄想をし、悲しみな現実を引き寄せる。

本当は成し遂げたい夢がある、しかし、そんなの無理かも、という無意識な妄想が、残念な現実を引き寄せる。

本当になりたいのなら、本当にそこに向かいたいのなら、そうなったと思いこんで生きてみたらいい。

そういうフリして生きてしまえばいい。

そうではないか?

信用するのが怖い?

であれば、最低限のみを守る術だけ残して、信用すればいい。

もし、そこで、悲しみがおきたならば、そのとき思い切り悲しめばいい。

それも人生のネタになっていいじゃないか。

人生なんぞ、ゲームである。

いかにそのゲームを楽しむか。

ならば平坦なゲームより、笑えるストーリがあったようが面白くないか?

私は最近そう思う。

失敗?

そんなものはない。

すべて芸の肥やしでありネタである。

長く生きていると、トラウマもあるし、怖さもある。

しかしながら、結局、そんなの妄想。

同じ妄想なら、楽しいほうがよくないか?という話。

どちらのゲームをアナタは選ぶ?

悲しいの妄想もときにはいい。

経験として。

しかし、どうせなら、楽しい妄想がいいよね。


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