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原体験の旅 01 2011 ラオス

先日、10年ぶりに「ボリカムサイ」という地名を聞いた。
その名前を聞いた時、それまで記憶の底に眠っていた10年前の鮮烈な旅の物語が突然あふれるように蘇ってきた。


コンポントムご近所さんの青年海外協力隊の方がラオスに旅行のお土産にと買ってきてくれた木製の食器。ラオスの協力隊仲間がいる場所の特産品だという。そのボリカムサイ県からきた木のコップたちが記憶の扉を開ける鍵になった。

大学を卒業して数年後の2011年、大学時代の仲間たち3人でラオスに行った。
誰が言い出した話かはまったく覚えていないけれど、
ラオスに行く
いいな
一緒に行くか!
いいね!
と話が決まり、当時それぞれが住んでいた日本とベトナムとカンボジアから、◯日にラオスの首都・ビエンチャン集合な
とそれだけを旅の約束にした。

当日、ビエンチャンの空港に降り立ってから、そういえば何時にどこって決めてなかったな、と気がついた。
10年前の東南アジアはそんなにsimカードをホイホイ買うような雰囲気でもなく、でも市内に行けばwifiがきっとあるから、とりあえずカフェを探して、そこから連絡すればいい。そしたら、先に到着している予定の旅の仲間の一人と落ち合えるだろうと、wifiがありそうなパンとコーヒーのあるカフェに入った。
そして、コーヒーを注文して、wifiに接続するより先に、店の奥の席でパソコンに向かう、見覚えのある背中が目に入ってきた。今回の旅の仲間であり大学時代の悪友その1、ベトナムから飛んできた川村くんだ。
おお、いたいた!
と手を振って、彼の前に座り、wifiに接続した私の携帯に川村くんから
そういえば待ち合わせ決めてなかったよね、俺はこのカフェにいるよ
とメッセージが届き、二人で
街の中心の方に行けば、なんとかなると思ったんだよー
と言って笑った。それぞれがベトナムとカンボジアで身につけた、「いい加減だけどなんとかする力」がここで活躍した。

旅の時系列はもはや覚えていないが、その後、もう一人の旅の仲間であり、こちらも悪友の友廣は1日遅れてラオスに入るということで、川村くんと二人で人に会いに行った。
ラオスの国際機関でインターンをしていたT青年だ。
彼と会っているうちに、理由はまたまた忘れたが、ボリカムサイ県に菊川くんという同世代男子が住んでいる、という話になった。(んだと思う。)
本当はビエンチャンの街にもう一泊して友廣がくるのを待つ予定が、ボリカムサイ県には日本人が一人しか住んでいないという話を聞いたあたりから、私も川村も心がグッとボリカムサイ寄りになっていた。
もしかしたら、この時の食事に菊川くんも同席していたのかもしれないが、そのあたりは覚えていない。

ボリカムサイに行けるかな?
行けるらしいよ、バスに乗って
じゃあ、行くか!
友廣はどうする?
うーん、あいつのことだからきっとボリカムサイでも合流できるはずだ(適当)
我々は先発して、ボリカムサイに行こう!
と話が決まった。

そんなこんなで地方都市へ向かうバスに乗り、どのくらい遠いのかもよくわかっていないままボリカムサイへ向かった。

確かお昼過ぎに私たちは無事にボリカムサイに到着し、くだんの菊川くんに導かれて、地元の市場に買出しに行った。今日は菊川邸の広大な庭で、自作の焼き鳥BBQをしよう!ということになっていた。
私はカンボジア、川村くんはベトナムと東南アジアの市場が珍しい訳ではないが、ところ変われば売られている魚の種類やおばちゃんたちのコミュニケーションの方法などに違いがあって、面白かった。

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そうこうしているうちに、友廣からビエンチャンの空港に到着したとメッセージがあった。二人はどこにいるのか?ときかれ、すまんが我々はボリカムサイというところにいると伝えた時は、我ながらヒドい奴らだと思った。笑

友廣は一人でビエンチャンのターミナルからバスに乗らねばならない。
初めての国、初めての街に降り立った途端、待っているはずの友がいない。初めて日本に来て、成田空港に到着した海外からの旅人に、群馬にいるのでそこまでバスで一人で来て欲しいと伝えたようなものだ。
しかし、そこは日本をくまなく旅した我らが友廣氏。

いや、お前らありえへんやろー
と言いながら、
とりあえずいくわ、バスターミナルどこ?
と、その状況にきっちり合わせてくれた。

実ばボリカムサイには、ボリカムサイ(カタカナ表記にすると同じだけど、ラオ語では違う地名)というすごく間違えやすい似た地名の場所があるらしい。それがまた、名前は似ているがまったく違う方角にあるという。
くれぐれももう一つのバスに間違って乗らないように、ボリカムサイーと語尾を伸ばして上げてくださいと菊川くんに言われたので、wifiがつながるうちに当時使い始めたばかりだったメッセンジャーの通話機能を駆使して、ボリカムサイーを練習した。

そして、どうにかこうにか友廣が無事にボリカムサイに到着したのは、ボリカムサイ県と隣国タイを隔てる大いなるメコン川が夕日に染まる時間だった。
その時すでに今夜の焼き鳥をレモングラスなどに漬けて仕込みを終え、メコン川を見ながら、ビアラオのビールを傾けていた我々は、自転車に二人乗りで友廣を暮れかけのバス停に迎えに行った。

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お前ら、ほんま、ありえへんわー
という第一声とは裏腹に、ボリカムサイに到着した友廣は楽しそうで、その変なテンションのまま近所の菊川くんがよく立ち寄るという商店でビアラオをどっさり買って、すでにとっぷりと暮れた暗い道をふらふらと二人乗り×2台で菊川邸へ向かった。

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そこから先の焼き鳥ナイトについては、市場で仕入れた鳥がうまくて、ビアラオとの組み合わせが最高だったこと、そして同世代のそれぞれ異なる国で生き、しかもどちらかというと都市部ではない地域で暮らす4人の目から見た世界は面白く、話が深夜まで尽きなかったことしか覚えていない。安全を重視して選ばれた菊川邸は広大で、居間だけでも広大なのに、一人一部屋与えられるくらいだった気がする。

翌日は菊川氏行きつけの朝食おかゆ屋に行き、ミスラオス候補で各県の代表が一堂に会したポスターを眺めながら、誰がかわいいとか、ラオスではどんな人がきれいと言われるのかなどを話しながら、定番のおかゆやおばちゃんがそんなに辛くないと言ったかなり辛いヌードルをうまいうまいと食べた。

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そして、彼の任地であり、主な活動の場である小学校に行かせてもらった。
行った時はちょうど生徒たちが教室の中にいて、広い校庭はがらんとしていた。賑やかな声のする教室をのぞかせてもらうと子供たちは怪しい外国人を気にすることもそんなになく、大声で話をしている男の子、数人で頭を寄せ合って談義している女子たちがいた。教室の前の方に座っている先生に外から会釈をして、なんの授業なの?と菊川くんに聞くと、今日は授業じゃなくて、テストだそうです、とのこと。生徒たちはそれぞれに、テストの答えを相談しているらしい。ダイナミックだ。

校庭で少し童心に帰りながらブラブラしていると彼の教え子だという子供たちがテストから解放されて出てきて、何だかよくわからぬ外国人たちがニコニコと好意的な感じでそこにいることをちょっとはにかみながら見ていた。

そのハニカミ少年たちの笑顔と、それを見守る菊川くんの日に焼けたニカッとした笑顔が印象的だった。


あの時私たちの目の前には、ボリカムサイに行くという選択と、行かないという選択とがあった。情報も、そこで何が待っているかも十分でも確かでもない中で、ボリカムサイという街に菊川くんという男性を訪ねて行く、という周りから見ると「何のために?」と言われそうなことを旅の真ん中に据えてみたら、その旅が私たちをたくさんの素敵な瞬間とその時だけの時間に導いてくれた。

夕暮れのメコン川、市場のおばちゃんと見たことのない形の魚、ミスラオス候補たちの微笑み、菊川くんから聞いた泥棒と洗面台の話、暗い庭と地鶏とビール、何を話したか忘れちゃったけどとにかく楽しかったことだけを覚えているあの夜。

他の人には見せてあげられないその全てが、私たちにとってのまぎれもないボリカムサイの記憶。
あの時あの場所にあのメンバーでいたということが、私という人生の血肉の中に確かにある。

旅は目の前に起こる事への反応の連続。
いつだって自分で見て、決めることを求められる。
行くか行かないか、食べるか食べないか、このレストランに入るか入らないか、この人を信じるか信じないか。

この見て感じて決めるというプロセスとそこで起こる面白さと不快さに、一つ一つきちんと向き合っていくことそのものが、旅の醍醐味なのだと思う。

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一つ一つを自分で決める、と言われるとついついちょっとひるんでしまいがちになるけれど、意外に、想像を超えて面白いところへ導かれることの方が、ずっとずっと多い気がする。

そして、このときの仲間たちとは10年近くのときを経ても、
やっぱり仲間である。

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