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光かと思った 06. 蛇足もわたしの道になってく

だめだめで、ださくて、惨めで仕方がない。

ここから離れている間も、「その時々の気持ちを書きたい、形にならなくてもいいから」と、何度もペンを取ろうとした。
けど肝心の展示の部分を何も進められてない(ようにしか見えない)のに、こんなこと書いてていいんだろうか。
そう思いを巡らせては書くのをやめていた。

約2ヶ月という時間が流れたのに、結局ここには何も残ってない。葛藤も一筋の光のようなものも、全部通過してしまった。
それらは確実に自分の中に流れているだろうけど、その鮮度は二度と思い出すことはできない。
それはとても悲しいことだ。指の隙間から雫がぽたぽたと落ちる。掬う手はどこにもない。覆った水は決して盆に返らない。
こんな思いをするのはもうこれっきりでいい。会期までちょうど1ヶ月。
だからやっぱりここに書くことにした。

ずっと何かを考えている、何かは分からない気もする、けれど忘れたことは一度たりともなかった。

「私にとっての光ってなに?」

光について考えて、言葉やイメージとしての光は明確にある。これらを手繰り寄せた結晶とも言えるDMとタイトルがわたしの最大の味方で、自信で、道標だった。

なのに、肝心の展示…すなわち適切な出力方法が分からない。そんな期間が何ヶ月過ぎたんだろう。数えるのが怖いくらいそこの場所に留まり続けている。
でも、タイトルやDMデザインを決めた時くらいの鮮烈な何かがないと嫌だ。歩きたくない。もっと導いて導かれたい。あの感動と快感を味わいたい。

分からないなりにとにかく「手を動かす」ことにシフトしてみる。一度やれたんだからできるはず。
誰かに相談する。話を聞いてもらう。形にしようとする。試作をしてみる。でもどれもこれもしっくりこない。どうして?

やみくもではなかったはず。それでも闇の中に手を突っ込んでぐるぐる回している感覚から解放されなかった。

自分で展示を作るってことをやったことがないから分からないのはある種当たり前なんだろうけど、仮にも表現者を謳っている自分が「何も思い浮かばない(かもしれない)」なんて。信じたくない。
そんな現実がすぐそこまで押し寄せていた。

けれどそれを認めてしまったら、今まで写真や言葉、詩、歌といった表現を重ねてきた自分、自分なりに表現者として確立してきた何かが音を立てて崩れてしまいそうだった。

ああ、わたしには何もない。
1人ではひとつも生み出すことのできない人間。
そんな事実たちと向き合う勇気なんてないのに、嫌でも思い知らされる。

それでも。

写真を並べただけだと思いたくない自分。
上手く撮れた写真をいい雰囲気で並べましたと思われたくない自分。
小さい手のひらサイズでたくさん並べてたくさん見て欲しい自分。
大きいサイズでプリントしてみたい自分。
これがなかごうまいだぞ、ってあっと言わせたい自分。
だからといって技巧を詰め込みました・テクニックを見せたいですっていうのは違う気がする自分。
自由研究みたいになりたくない。インテリアみたいにもなりたくない。
蔑ろにされたくない。近道したくない。私の最適解はまだ見つかってないだけ。まだ、まだ…諦めたくない。

妥協もできない、納得しないと前に進まない、面倒臭さしかない人間。
それが一生かかって伴走する「なかごうまい」なんだ。
そこを分かった上で蹴る地面は、向かう一歩は果てしなく力強くて尊い。

見えるものが全てではない。
それでも人には目があって、見ようとしてしまう以上、見えない部分に目を向けてほしい、見ようとしてほしいと願うのはあまりにも酷だ。

だからシンプルにまっすぐに、見えるものに熱量を込める。託す。信じる。

そんな私になっていきたいのだと、気づいた。

2024年3月19日(火)22:58
今日からまた無理なく毎日何かを書いていたい私より
(じつはこの文章、9割型ひと月前の下書き)

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