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亡くなるということ。2

祖母のお通夜とお葬式の予定の連絡があった。

コロナによって全国一斉学校閉鎖が開始した日だった。

どうしようかと悩んだが、小学生の娘だけ連れていくことにして、保育園児の双子は夫に見てもらうことにした。

ドアtoドアで5時間。娘は福岡からのバスでバス酔いしながらなんとか到着。すでにお通夜の準備は整っていて、叔父と叔母も大阪から到着していた。その頃は今ほどの自粛要請はなかったけれど、コロナの影響を考慮して、家族葬でやると町内会に連絡をしていた。

棺の中にいる祖母と対面した。2週間前は寝たきりでも温度があったし動いていた祖母が全く動かない。おしろいをつけてもらって口紅をしてきれいな表情だったけれど、また泣けてきた。命が「有る」ことと「亡くなる」ことの大きさってこんなに違うんだと痛感した。

娘も泣いていた。

お通夜が始まり、呼んでいないけど「情勢はわかっております。自分が来たかったから来たので気にしないでください」と集まってくれる参列者の方が結構いらっしゃった。身内としては素直に嬉しかった。

バタバタとお通夜が終わり、母と娘と夜に食べる夜食を買いに行って、そのままバスで到着する兄を迎えに行った。

交代でお線香に火を灯しながら、翌朝を迎えた。

お斎を食べ、お葬式が始まった。

娘がお焼香できるか心配だったか上手にできていた。

お焼香が終わり、棺を開けお花を入れるとき、最後になると思っておばあちゃんに触れてみた。

やっぱり冷たかった。涙が止まらなかった。

本当に本当におばあちゃんのこの姿形を見られるのが最後なんだと思ったらより悲しくなった。

火葬して、肉体が亡くなるんだ。魂だけじゃなくて肉体も亡くなるんだ。

そう思った。

娘に「ひいおばあちゃんの形を見られるのは本当に最後だからしっかり見ておいてね」というようなことを伝えた。

火葬場に移動する車では母と娘と私の3人だった。

私が「おばあちゃんがいなければ私たち全員いないから本当にありがたいことだね」と言った。

火葬場で、小二の娘が「さっきママが言ってたけど、ひいおばあちゃんがいなかったら私たちがいないって、本当にその通りだと思った」と言ってびっくりした。そんなことを同じように共感してくれるくらいに成長していたことに心底驚いた。

親戚と火葬を待つ間、色々と話をした。関東、関西、九州と日ごろは会わないけど、親戚は冠婚葬祭で会い、つながり合う。そういうことも尊いなと感じた。

火葬が終わってお骨になって肉体が亡くなった祖母。見たら悲しくなるかと思ったけど、お骨がしっかりしていて、逆に生命力を感じた。

怖がるかなとおもったけど、娘も積極的にお骨を拾って壺に収めてくれた。

遺骨を丁寧に布で結んでもらって実家の祭壇に祀る。

形は変わったけれど、一緒にいられるように火葬という手段を昔から用いているのだなと思った。

夕方は親族だけで食事会をした。父方の親戚と母方の親戚。このご縁も私たちも全員祖母を通して生まれたご縁だ。

亡くなるというのは魂と肉体が亡くなる、この世には亡くなる。そういう事だと改めて実感したけれど、その亡くなる前の故人の人生を通して紡いで来た軌跡に残る者同士が気づかせられる貴重な機会だと感じた。

母が「今おばあちゃんはおじいちゃんにようやくあえて幸せだと思うわ」と言った。

祖父が亡くなった16年前、その後から痴呆が進んだ祖母。祖父が亡くなったことが気にならないようにそうなったんだと思う。痴呆症が原因で母とぶつかったり、疲れたりしたこともあったけれど、祖母はその方が幸せに不安なく暮らせていてよかったんだと思うということを言っていた。

そんなに大好きな人と一緒になれた祖母は幸せだったのだと思えたし、

祖母とは衝突が多いと言っていた母と祖母の親子の愛を感じたし、

そんな祖母のおかげで今在れることに目いっぱいの感謝を感じている。

この世での命や肉体は亡くなったけれど、そうやって生き続ける。

大切に在る時間を生きていきたい。







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