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各人間が持つ「心のフィルター」

だいぶ間隔が空いてしまいましたね笑

大切に書こうとするとなんだか重くなってしまうので
もう少し軽めに進められたらなと思います笑


さて、
感覚を大事にするでもう一つ最近思うのは
目から得た情報を自分の心の中でフィルターにかける事。

同じ情報を受け取ったとしても
受け取り方は人それぞれで
心のフィルターを通った瞬間に
それぞれの色味を纏ってしまう

だからこそ自分が見たもの、感じたものが真実になったりするんだと思うんだけど
1つ1つを自分で確認できないからこそ流れてきた情報を真実なんじゃないかと自分のデータの中に入れてしまう。


わざわざ現地に行ったり
その人に会いに行ったりするより簡単だしね笑


しかしそのズレがめんどくさいことになったり
あたかも真実かのように歩き出したりする。


その逆も然りで
自分が頭の中に感じていることを
文章や音楽や写真や映像などで表現しても
受け取る側によっては全然違う解釈になってしまう。

どちらが正しいとか間違っているなども無くなってしまう。

だからこそ、抽象的で「最後の結論は自分なりの答えを探してみてね!」みたいな終わり方の方が大衆には伝わりやすいのかもしれない。

その塩梅が難しくて
受け取る側に期待したりしてしまうんだよね〜

そして期待通りではない展開に苦しんで悩む

せっかくの表現を辞めてしまう。


現代の人間はこれの繰り返しのような気がして
もどかしい気持ちも生まれるけど
そんな私の気持ちすら
何かを作る側の人からすると
「期待はずれ」になっているパターンもあると思っておかなければならないよね。


自分が表現したいなと思う時の最大の壁はこれなのかもしれない。


期待通りに行かなかったとしたらどうしよう
勘違いされたらどうしよう
バッシングされたらどうしよう


でも、おそらくそれをやりたいな、表現したいなと閃いた時点で、きっとその人にはそれができる。
でもこのどうしよう、どうしようと言う気持ちが自分のエゴとなり守りの部分を作ってしまう。


そうすると表現が中途半端になったりするから
伝わらない響かないと言う事態が起き、
そのうちにその夢への挑戦を諦めてしまう、、、なんて展開の方が増えてしまうのかもしれない。


周りの目を気にせずに自分軸を全開で表現すればどこかに刺さりそこから流れが生まれるものなんじゃないかと思ったりもする。


まぁそんな私も長い間、他人軸に翻弄された人間の一人なんだけど
そろそろそんな生き方も辞めて
自分軸を表現してもいいんじゃないかと思うようになってきました。

もちろん他人を傷つけることは避けなければならないけど、人生を生きていく中で
他人傷つけないように生きていくことは不可能に近い。。

どんなに思いやりを持った言葉を発しても
受け取る側の心のフィルターに引っかかるからだ。


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