なんでも経験なんて言うけれど。
何かに挑戦するか人に相談したとき、特に自分より年上の人は、「なんでも経験だよ」なんて言う。
しかし、最近気づいてしまった。その“経験”にも良し悪しがあることを。
人間関係もそう。
経験
やったことがないことをやってみたい。
色々な世界に飛び込んでみたい。
新しいことに挑戦したい。
色々な人と関わりたい。
そう思って色々なことに挑戦してきた自分を否定したいわけではない。私にたくさんの学びと成長をくれた経験ばかりだった。これからも色々なことに挑戦していきたいと思う。
ただし、一方で「やめる」「現状維持」ということも経験と言えるのではないか。
「なんでも挑戦」「なんでも経験」なんて言う人は、行動することそのものに価値があるかのように話すが、何に挑戦するのか・何を経験するのかということの方がよっぽど大事ではないか。
時間は有限で、休養も必要である。自分が持っている時間を踏まえて、何に時間を割くのかを考える必要がある。
やりたいことに挑戦する。
それだけでは不十分なのだ。
あえて経験を増やさないことを選ぶ、2024春休み。
私は、新しいことに挑戦することに対する抵抗が少ない。
それ故によく考えずに、やってみたいことにすぐに挑戦してしまう。
しかも、多分一般的に見て、好奇心が旺盛な方で、そのやってみたいことというものがたくさんある。
その結果、やりたいこと・やるべきこと・できることの分別がつけられなくなってしまった。無論、それより昔の私は、これらのことにすら気づけていなかったのだから、がむしゃら多忙時期が私にとって重要な経験になったことに変わりはないのだが。
だからこそ、この春休みは、“新しいことをしすぎないこと”に挑戦してみようと思う。
Googleカレンダーのパズルはもうやめる。
できるだけ、カレンダーの空白を増やし、できるだけ家にいる。
そして、勉強をする。本を読む。自分の考えを言葉にする。
(作文が大の苦手で、読書なんてほとんどしなかった私が、読書にハマり始めて、文章を書くのが好きになった。今でもびっっくりだ😳)
恋愛
恋愛話でも、「なんでも経験」という言葉をよく耳にする。
たしかにね〜と思う一方、でもそれも良し悪しあるよねと考える。
周りの人の話を聞いたり、本や映画、SNSで色々な恋愛観に触れたりしてきて、洞察力がついてきたような気がする。次の章の対人関係にもつながるけれど、些細な一言の裏にある価値観や考えを想像できるようになった。
なぜ、その言葉を使うのか。他人の発言のどんなところに驚くのか。その一つ一つから、その人の人となりが少しずつ読み解けるようになってきている気がする。
恋愛しにくい性格になったと言えばマイナスに聞こえるかもしれないが、見極められるようになってきたので、私は結構今の自分気に入っている。
最近なんかやる気出ないんよねと相談したとき、「恋愛するといいよ」という言葉をかけられたり、「恋愛の穴は結局恋愛でしか埋められないよね」という言葉を聞いたりした。
その人たちの気持ちもよくわかる。
しかし、だからといってそれが目的になってしまってはよくないと自分に言い聞かせる。恋愛に否定的になっているわけではないが、今の自分の価値観に妥協したくない。
恋愛したいとか、1人がいいとかそういう形式的なことはどうでもいい。
恋愛するのも経験。1人でいるのも経験。
その時々で自分の信念にあった選択していきたい。
対人関係
ちゃんと話し合えば、人は皆分かり合える。
高校生の頃のピュアな私は、そう信じて疑わなかった。
ちゃんと話し合えば、戦争なんてなくなると思っていた。
でも、気づいた。分かり合えない人はいるのだ。
ただし、それは、相手が悪いわけでも自分が悪いわけでもない。人間的な相性の問題だ。
最近、「この人にはこれ以上言っても伝わらない」「この人とは分かり合えない」と感じ、対話を諦めることが増えてしまった気がする。
とても残念な話ではあるし、私が歩み寄ろうとしていないことも一つの原因である。
ただ、私は、そんな自分を直そうとはあまり思っていない。
いわゆる教育学部人間なら、歩み寄って、話し合おう!というのかもしれない。
しかし、言い方は良くないかもしれないが、歩み寄る価値のある人とそうでない人がいると思う。
ただし、ここでいう価値とは、人間的な価値ではなく、私自身にとってプラスがあるかということである。
全人類と分かりあうなんて無理だ。時間は有限なのだから。しかも、環境が変われば疎遠になる人がほとんどなのだから。
“選択”という言葉を使うのは良くないかもしれないが、皆多かれ少なかれ、関わる人を選択しているのだと思う。というか、選択しないとふわふわとした人間になってしまうだろう。
この人は自分のことを理解してくれている。この人は面白い。と思える人を大切にしていきたい。
念の為、補足しておくが、ここでいう対人関係とは、あくまでプライベートでの話である。教師と児童生徒、企業とお客様というような関係性がある場合は別である。
友達のnoteを読んで考えた。
noteを書いている時に一番不安なのは、嫌われてしまうのではないかということだ。
私には、文章がとてもとても上手な友人がいる。私は彼女が書く文章が好きだ。彼女が書いた文章はどれも好きだから、彼女がどんな文章を書いても、私は彼女のことを嫌いにはならないだろう。共感できないことがあっても、その考え面白い!と取り入れるだろう。
彼女のnoteを読んでそう感じた時、私も文章を書き続けたいと思った。文章を書けば書くだけ、脳内を晒せば晒すだけ、離れていく人も増えてしまうかもしれないが、逆に、面白いと思ってくれる人だけが残っていくと思うと嬉しい。
まぁ、あとは、とても仲が良い友人たちは、私の文章なんて読んでないくらいの人も多くて、それもそれで大好き。
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