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【東京・日本橋】ゴッホとゴーガンの2ショットがエモい!「イマーシブミュージアム」

東京日本橋で開催されているポスト印象派の没入型体感アート「イマーシブミュージアム」に行ってきました。

KAORIさんのnoteを拝見して、どうしても行きたくなり、7ヶ月の赤子を連れて行ってきました。

絵画とは見る視点が変わって、新たな名画にも出会えて大満足でした。

作家たちの絵画と生涯をまとめました。

これを知ってから、イマーシブミュージアムに行くとまた更に視点が変わりそうです。

特に、ゴーガンとゴッホのツーショットがエモく感じると思います。

カーテンを開けると、名画が四方上下に広がります。

今回は"ポスト印象派"のストーリー。

19世紀後半のパリで印象派の絵画をさらに発展させた画家たちの作品がプロジェクションマッピングで映し出されます。

ポスト印象派たち

ジョルジュ・スーラ

「グランド・ジャット島の日曜日の午後」

新印象派に分類される19世紀のフランスの画家。 スーラは、印象派の画家たちの用いた「筆触分割」の技法をさらに押し進め、光学的理論を取り入れた結果、点描という技法にたどりつきました。

完成作を仕上げるまでに多数の素描や下絵を制作して、入念に構想を練りました。 

ピサロ・セザンヌ・ゴーガン・ゴッホ

ピサロの人柄と作風は、多くの若い画家たちからも慕われていました。

気むずかし屋のセザンヌ、株式仲買人の職を捨て画家となったゴーガン、そしてオランダからパリへ出てきたファン・ゴッホ。名だたる天才たちが若かりし頃、最も慕い、影響を受けた画家は、ピサロだったのです。 

こんなエピソードを知ると、絵の見方も変わってきます。

ゴッホが耳を切ったのはゴーガンが原因

南仏のアルルで共同生活を送っていたゴーガンとゴッホ。

アルルは、フランス南部のマルセイユ近くにある町。地中海に面し、天気の良いことで知られている地域です。ゴッホがアルルを選んだのは、パリ在住中に影響を受けた日本に憧れ、日本は明るい日差しの差す素晴らしいところだと思うようになり、天気の良いアルルが日本と似ているのではないかと考えたためでした。実際にアルルに移り住んだゴッホは、ここの日差しの明るさが大変気に入り、気を持ち直してまた頑張って絵を描こうと思うようになるのです。

「黄色い家」1888

そこで考えたのが、「黄色い家」という愛称で呼ばれていた借家を共同のアトリエにして多くの画家たちに集まってもらおうという案。こうしてゴッホは何人かの画家に手紙を送るのですが、結局この案に良い返事をくれたのはゴーガン。

ゴーガン「ひまわりを描くヴァン・ゴッホ」1888

ゴーガンとゴッホの仲は、性格の不一致と絵に対する考え方で関係が悪化します。ゴッホは写実を重視し、自分の目に映ったものを絵に表現するタイプでした。一方ゴーガンは想像を通して描くことを重視していました。

ゴッホの自画像

1888年12月23日、ついに2人の間に大きなけんかが起こり、ゴーギャンは家を出て行ってしまうのです。この時に起きたのがあの有名な「耳切り事件」でした。ゴッホの作品の中にも耳から頭にかけて包帯をまく自画像が残っています。

ゴーガンとゴッホ

そんな2人は、わずか2か月という短い期間でしたが、フランスのアルルで共同生活を送りました。最終的に2人の関係は破たんし、それぞれ別々の道を歩むことに。特にゴッホは決別により精神不安定となり最後は「自殺」という悲しい結末に。


「花咲くアーモンドの枝」1890年
「夜のカフェテラス」1888年
「ひまわり」
ゴッホは画家人生10年の間に、ひまわりを描いた作品を7枚残し、そのうちの6枚が現像しています。 ファン・ゴッホにとって向日葵は、明るい南フランスの太陽であり、ユートピアの象徴であったと言われています。 そのうちの一点は日本の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館(東京)に所蔵されています。
ゴーギャンが亡くなる2年前に描いた「ひまわり」
タヒチを出てから移住することになったマルキーズ諸島で描かれました。
この作品は共同生活を送りながらも喧嘩別れをした亡きゴッホを想いながら描いたと言われています。 ゴーギャンは制作のためにフランスにいる友人に頼んでひまわりの種を送ってもらったそう。


イマーシブミュージアム、子どもは絵本が無料で貰えます

【アート解説】ポール・ゴーギャンの代表作 | CASIE MAG - アートを学ぶ、楽しむ、好きになる。

イマーシブミュージアム | Immersive Museum (immersive-museum.jp)


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