第1期 将棋もも名人戦 ー 最終話

※100円マークが出ていますが全文無料で読めます

[目次]第1話 第2話 第3話 第4話 第5話

わたくし、キジのごとく座っておりますから―――そう言った加藤一二三の手が、突然、羽生と森内の盤上に伸びた。丸くてふわふわした白パンみたいな手、その手はごくごく自然に羽生の銀を、つんつくし始めた。

つんつくつん、つくつくつん、つんつんつん! 歌うように羽生の銀を触り尽くした加藤は、大真面目な顔で「桃から生まれたもりうち太郎さんは、この銀、どう思われますか」と聞いた。

唐突に自駒を触られた羽生をちらりと見やった森内は、はぶさん、顔、ちょっとだけ、こわい、逆だってる、毛が、ねこ、とブツ切れの思考を巡らせつつ、銀について思うところを述べた。

「ふぅむ」

加藤がキジめいた腕組みで考えている隙に、羽生はつんつくされて傾いた銀を素早く整えた。そこに再び加藤の腕が伸び、羽生の銀はまたもつんつくされた。加藤は銀に指を乗せ、愛おしそうに欲しそうに、これちょうだいと言わんばかりに放熱しながら、いかに自分が銀を愛しているか、ということを、ナルニア国物語よりも長く長く、長く語った。

加藤のナルニア国物語が佳境に入るころ、対局室のふすまがガタガタと、音を立てて開いた。

皆が振り仰ぐと、そこには妖怪のような女が、もじもじしながら立っていた。女はこの世のよどみと歪みを一身に受けた沼地のごとき顔色で「ふすまをスッと開けぬ者はダメなひと、ふすまをガタガタさせるのはダメなひと、ふすま、ふすま、また失敗した……私の、名前は、マツモト、マイ、これを、書いてる、作者、です」と言った。

警備員が飛んできて、マツモトをつまみ出そうとした。マツモトは音程の狂ったすごく暗い密歌を警備員の耳元で1番から100番まで歌って、警備員を不安にさせることに成功した。警備員は「そんなバカな…うそだろ……」と青ざめながら、退室して行った。

よろめきながらマツモトは、「無礼千万すべて承知の上、打ち首獄門の覚悟はできております。本日はお願いがあって参りました」と言った。

* * *

解説の佐藤康光は目を剥いた。
「まさかの作者登場という悪手……先ほどまでは私も対局室へ行きたいと思っていましたが、さて、はて、ちょっと、いやかも」

* * *

マツモトはわざとらしいまで突っ伏して、自意識過剰に土下座して、今回の観察記を書かせて頂けないでしょうか、と言った。

「か・ん・さ・つ・き?」
と羽生。
「観察記って、何ですか」
と森内。

マツモトは力の限り眼圧を高めてまなこを飛び出させると、自分は将棋が大好きだけれど激弱くて棋力で言うならマイナス5億、ですから観戦記は書けません、しかし皆様の魅力を世の人々にお伝えしたく、自分にできる方法は観察記しかないと思い至り―――と極まって、おもむろに取り出した無水エタノールを一気飲みして自分を景気づけた。

対局室に、エタノールのにおいが充満した。
マツモトは勢いづいた。

「差し当たり、いかに自分が将棋を好きかご説明させて頂きます、まず」

マツモトは5ミリ四方の紙を取り出すと鶴を折り始めた。そして自分の一日について語り始めた。

「私はまず、朝起きたら駒占いをします。歩が出たら今日はゆっくり一歩ずつということで二度寝、香車はその気になれば一気に前進できると信じて二度寝、桂馬のときは寝返りを打って二度寝、それから……」と結局何が出ても二度寝してしまうことを告白した。

「そして昼には将棋定食を作ります。角煮と飛騨牛とキンメと銀だら、香のものに玉子焼き、おわんには、おふが入ってます。夜は、将棋の風呂にも入りますし……今のは将棋のプロとかけた駄洒落ですが、ともあれ」

マツモトは2本目の無水エタノールに手を付けた。

「将棋を見るようになって、私は変わりました。まともになりました。ああ、まとも! かばんを失くしたときだって、交番で中味を問われ、将棋の本しか入ってなかったと正直に答えました、昔の自分だったら嘘をついたと思います、10万円入ってたとか、そんなふうに」

畳の上にはいつのまにやら、5ミリ四方の千羽鶴ができていた。

マツモトは叫んだ。
「将棋が!私を!変えたんです!!」

しばしの沈黙の後、「私は別にいいですよ」と羽生が言った。「私も別に構いません」と森内が続き、加藤は「羽生さんの銀が……」と呟いた。

演技過剰に子鹿ぶるマツモトの頭上に、森内の声が降った。

「事情は分かりませんが、例えば将棋では定跡を外れても目的がはっきりしていれば、自分らしく、そして楽しく指せばいいと私は思います。そして将棋の世界でなくとも、きっと、それは、当てはまる」

羽生が静かに頷く。
加藤はまだ羽生の銀を触っている。

森内が水を飲んだ。
「あなたは観察記が書きたいという、目的がはっきりしていますね。ならば書いてみたらいいのではないでしょうか。私も常々、迷ったら前に進もうと決めています」

羽生が続ける。
「ええ、ええ、書いてみたらいい」
加藤は、森内の銀にも、手を伸ばし始めた。

何とも言えぬ静けさが、しばし、流れ、羽生が、すっくと、立ち上がった。

「森内さん」
「なんでしょう」
「私たちも、定跡を捨てませんか」
「ほう」
「盤上に棲む鬼なんているに決まっているけれど、そういう常識はゴミと一緒に捨ててしまいたい、今日はそんな気分です」
「羽生さん、ご自分でゴミ出しをされるのですか」
「今のはものの例えです」
「分かってます」
「分かってるだろうと思ってました」
「分かってると思われてると分かってました」
「では、今すぐ桃狩りに行きましょう」
「ももがり?」
「聞けば東の方に、めっぽう強い、渡辺明という桃の木があるとか」
「それはぜひ、もいでみたい」

羽生と森内は加藤と佐藤康光にも声をかけ、東へ向かった。
どうやって行きますか、新幹線かなーと羽生は言ったが、森内は皆で川を流れて行きましょうと提案した。だってこれは、桃太郎だから。

羽生は、森内さんって、やっぱり基本は、変わらないなーと思いながら、ここ岡山なんだけど東京まで流れるってどういう神経してるのかなーとも思いながら、それでも何故だか楽しくなって、広島カープの野球帽をかぶった少年みたいな表情で、良いですよ、なんだか修学旅行みたいですね、とシャボン玉っぽく笑った。

どんぶらこ、どんぶらこ、棋界の桃太郎たちの、終わらぬ旅が始まった。

対局室にひとり残ったマツモトは、真っ白いノートの表紙に「第1期 将棋もも名人戦」と記してから、静かにふすまを閉めた。

(完)

これにて『もも名人戦』は完結です。全無料で公開してきたけど、吐血しながら完走した自分への慰めに、今回だけは投げ銭(百円)にしました。百円でおまえを応援したい!と思って頂ければ、必ずや活力にすることを約束します。そして投げ銭のあとに何もないのは寂しいので、オマケを!つけた!

さて、オマケは何か?

あとがきと、創作ノートを写真で公開します。棋士メモおよび私の思考が丸見えです。皆さんへのラブレターと化してしまった あとがきには、作中では絶対に絶対に、とても書けなかったことも書かれています。

投げ銭はできない、でも面白かった!と思って頂けたら、スキマークをくださいませ。コメントも大歓迎、それらを糧に次回は別の切り口で発信することを、うちのモリウチ(植木の名前)に誓います。かしこ。

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