言葉は刃物だ ~おねしょとコミュニケーション教育の話~
数年前のある日、私はとある小学校の教室でグループディスカッションの仕方を指導していた。お題は以下のようなものだった。
班の中で一人を選び、その人の悩みを聞いてください。
そして、その悩みが生じている原因を皆で話し合い、解決策をひとつ見つけてください。最後にそれを2分間のプレゼンテーションで発表してください。
ちなみに、この教室にいたのは5年生だ。
教職についている方や、年頃の子をお持ちの親御さんなら、このお題がいかに危険なものか、想像がつくかもしれない。
「こんなテーマに取り組ませて、うちの子が話した悩みが原因でいじめにでも遭ったらどうするつもりですか?」
学校に押しかけてそう叫ぶ保護者の姿が目に浮かぶ人すらいるかもしれない。
事実、このテーマに対して、私もひそかにヒヤヒヤする悩み事を打ち明けた男子児童がいた。
僕は、いまだに、おねしょがなおらない。
小学5年生の子がおねしょをすることくらい、いくらでもあるとまでは言わないが、かといって、特段珍しいことというわけでもない。しかし、それを思春期の男女がひしめく教室内で打ち明けるとなると、これはちょっとした事件である。
教室内には、弱みを握られたくない相手もいるかもしれない。ひそかに思いを寄せている子もいるかもしれない。そう言う状況下で、彼は「おねしょがなおらない」を迷わず悩み事として、挙げた。
そして、この班の子たちの反応は実に立派だった。
彼らは原因究明のための質問を、淡々と進めていく。
・へぇ、週にどのくらいおねしょするの?
・寝る前にトイレに行かないこともある?
・寝る前にお水飲んだりする?
・怖い本とか読んだりしてない?
結果として発表されたプレゼンテーションは、
「寝る前にトイレを済ませましょう」
といった他愛もないものだったが、そのプロセスは私自身も、そしてそれを見学していた先生方も感動を禁じえなかった。
この授業では、私は特に「人を馬鹿にするようなことはやめましょう」とは言わなかった。禁じられるとやりたくなるのが人の性ということもあるし、Don'tsで子どもたちを縛るとディスカッションが盛り上がりにくいという面もある。
代わりに言った事と言えば、「せっかくだから、本当に悩んでいることを言ってみてほしい」ということだった。そんな中で提示された「おねしょ問題」は、彼にとって切実な悩みだったのだろう。そしてそれを「ふざけて受け止めてはいけない」と、班のみんながしっかり理解してくれたのだと思う。
ちなみに、この小学校では、兼ねてから私をプレゼンテーションやコミュニケーションの外部講師として登壇させてくださっており、1年目は単なる発表、2年目はグループでの発表、3年目はグループでの問題解決…といった形で年々レベルを上げて指導をしていた。
といっても、年に数回のことでしかない。日ごろの指導で、飛び降りても怪我しないようなフカフカの土壌をクラス内に作ったのは、まぎれもなく担任の先生の功績だと思っている。
言葉は、刃物だ。
そういう例えを私は良く引き合いに出す。
祖父が言っていた「言葉はメスにもなるしドスにもなる」という口癖が元だ。
人を病から救うメスのように言葉を使うこともできれば、チンピラが振り回すナイフのように人を傷つけるためにも使うことができてしまう。刃物と違うのは、言葉は勝手に人から人へと伝播して、いつの間にか人を傷つけたり、いつの間にか人を救ったりするということかもしれない。
SNSに群がる誹謗中傷は、本人にその刃が当たるという自覚もないまま投げられた手裏剣のようなものだ。…いや、時としてそれを「わざと」やっている人もいるだろう。自分の名だけを伏せたまま投げつける卑劣極まりない行為だと思う。
前回のユーモアに関する記事でも似たようなことを書いたが、コミュニケーション能力を磨くということは、この例えに乗っかれば「刃物を研ぐ」行為に等しい。学ぶにつれて切れ味が伴うからこそ、そこに求められる品性を併せて身に着けなければ、ダークサイドに堕ちる。
プレゼンテーションなりコミュニケーションスキルを学ぶのは、そういう意味で武道にも似ているところがある、と思う。