「いっせーのーせ!」の脆さ

お盆明けの電車の中はなんだか空気がぬるっとしていて、どうにもやる気がしゃきっと垂直に立ち上がらない感じがする。みんなまだぼんやりしているというか、まだ休んでいる人もいるせいかすごい混んでるって感じもどことなくしないというか、そういう、気の抜けた炭酸のようなテンションの一日であります。

どうもこう、日本は「いっせーのーせ!」でいろんなことをするように今のところいろんなことができている。いっせいに休みを取り、いっせいに出社し、いっせいに就職したり、なにかにつけて、いっせいである。そうすることによって「自分はそれをいつするのか」という意思決定のコストを下げて、ある種の「そういうものだからそうするのだ」という決め方でもってやっているわけだけど、それって、その「いっせーのーせ!」がそもそも間違ってるのではないか?という疑義が浮かびづらいという脆さがものすごくあるわけです。あと、全体感でいえば、「いいときはものすごくいいけど、悪いときはすごく悪くなる」という、保険のかからなさも感じる。まとめてみんなで悪い人に騙されちゃったときに「いやあの人いってることおかしいよね?」と止める人の荷が重くなりやすい。悪くなりゆくときはことさら気を付けないといけないよね。躁鬱の人のような上がり下がり、一喜一憂を抑えて、安定したテンションになるためにも、「いっせーのーせ!」にもっと疑問を持ったほうがいいと思うのです。

あとやっぱり単純に、分散したほうが空くじゃないですか。競争も減るし。いっせいにやるから、比較軸がそこに立ち上がったり、混雑による摩擦が人の心を摩耗させたり。最初に「いっせーのーせ!すると、意思決定のコストが下がる」って書いたけど、その分、競争とか比較とか空気を読むコストがあがってるわけだから、コスト論ではトントンだとすると、個々人の自由が担保されているほうがいいようにも思うのです。

と、混雑が大嫌いの私は思います。なるべくあまのじゃくに生きていきたい笑 あとは、あまのじゃくし続ける勇気(もしくは鈍感力)がもっとあればなあ。

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