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「聞こえてしまう」ことの拡張性

名古屋暮らし3日目のお昼。隣の隣の席に座るおばあちゃん4人組の会話が聞こえてきてしまう。話題は体のかたさについて。まだなんとか大丈夫だけど、動くうちに毎日ストレッチをしていかないとだめらしいのよという話から、寝る前ふとんの上で薄暗がりの中、天井に向けてV字開脚を毎晩するのだけど、自分では120度くらいのつもりが、明かりつけてやってみたら90度くらいで、やんなっちゃったわよー!という話などなど。いつもどこでも、自分とは違う日常を生きる人の話が聞こえてしまうのは、面白いものです。

とかく人は何か自分以外のことを理解しようとしたり、自己拡張をしようとすると、「聞く」みたいな、能動的な解決を求めがちで、そのほうが精神面でも何となく努力!している感じもするし、『今、俺、新しくなりつつある!』みたいな満足感も得やすいのだけど、能動的ということは自分の作為の範疇であるともいえるわけで、ほんとに可能性を広げたいのであれば自分の作為の外からの出来事、つまり受動をうまく使うのも手だと思うのです。「聞く」のではなく「聞こえてしまう」ことを大事にするみたいな。自分がいよいよ英語をなんとかしたほうがいいと思うのも、読みたいことを読むとか、言いたいことを言うとか以上に、「言われていることを理解する」とか「聞こえてきてしまうことを受け止める」とか、そっちのほうが大きいように思う。読もうと思ったり、聞こうと思えば、それは何とかなってしまうかもしれないけど、本当に大事な自己拡張の余地は、受動の向こう側にあるように思うのです。

まあもちろんとはいえ、「聞こえるようになるための能動的な努力」は必要なんだけどさ。言いたかったのは、すべて自分のコントロール下で人生構成しようとするより、ある程度ランダムとか運とか縁とか、そういうことで、最後うまくいい塩梅になるほうが、気楽で想定外のものになるのかなあと、あのおばあちゃんが薄暗がりでV字開脚をする絵を思わず思い出しながらのメモ。

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